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劔岳 点の記における表現の詐術もエ〜ガね!

居場所を問う家族の物語…。夏山シーズンを前に木村大作監督の『春を背負って』が公開されたはずですが、どうだったんでしょう。原作の奥秩父から…山小屋の舞台を立山連峰に換えての撮影だったようですが、映画の評判が聞こえてきませんねぇ。

というわけで、今回はこの監督の最初の…5年前の『劔岳 点の記』について書いてみましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=cCcktTfIY68
http://www.youtube.com/watch?v=71WnPacBhEs
http://www.youtube.com/watch?v=7Wt_IqgZLwQ

点とは三角点。つまり、劔岳測量観測の記録ですよね。
撮影に2年かかったんですね。でも、2年だけ? この映画のことはもっとずっと前から聞いていたような気がします。もしかすると、『劔岳 点の記』の制作は一度…頓挫してるのではないでしょうか。

立山は古くから山岳信仰の場所で、その奥の“劔”は霊峰と呼ばれていた山。わしは劔岳(剣岳2999M)に一度しか登頂したことはありませんが、急峻な岩峰でした。独立峰に近いので、あの山での撮影はさぞかし…たいへんだったでしょう。
簡単に行けない場所だからこそ、山は美しい。厳しいからこそ、人生はすばらしい…なんてね。
リアリティにこだわり、『劔岳〜』は自然美と日本人の心を映し出す映画になっているに違いない。そう思って観たものでした。


よくリアリティのある映画といわれますが、それはリアルとは違いますよね。
木村大作監督は黒澤明監督のもとでカメラマン助手を務めたわけですが、その黒澤映画にしても映画のウソはいっぱいあります。リアリティを追求する中にウソを紛れ込ませている。たとえば『用心棒』で、三十郎が拳銃を持つ卯之助を包丁でやつけるところなどです。三十郎の強さを見せつけて、彼なら包丁一本でできるという気にさせる。観客は疑うことなくその気になってしまう。それは映画上のテクニック。ウソこそが映画の最大の魅力だといっても過言じゃない。わしはそう信じています。どうでしょうか。

例をあげればキリがありません。たとえば、ティムール・ベクマンベトフ監督の『ウォンテッド』という映画。あり得ないウソがたくさん出てきます。でも、あり得るかも…って思わせてくれる。「あり得ねぇ!」ではなく「あり得るかも…!」って思えるのは紙一重ですが、いったい何の差なんでしょうか。もちろん、俳優の演技もありますよね。

あるいは、マンガのウソ。ウソがあるからこそのマンガではないでしょうか。
たとえば手塚マンガです。2コマで1000年くらい時が流れたりする。ところが、その2コマで主人公はひとつのセリフをいってたりするのです。実際はあり得ない。でも、何の違和感もなくスンナリと読めて…感動するのです。これにしても表現上のウソ。コマ割りのトリック。手塚ワールド。詐術という名の表現テクニックでしょう。

映画やマンガや演劇、あるいは小説。それぞれによって表現の詐術は違うでしょう。マンガならばできるけれど、映画でそれをやるとお笑いになるとか…その反対とか。『ウォンテッド』の時間の逆行表現なんて…マンガでは不可能ですもんね。
時代による感じ取り方の違いもあるでしょうが、逆にそれこそエーゼンシュタインの時代から変わらないものもあるでしょう。そういうことを研究して行きたいものです。

ナゾをナゾのまま説明せずに放り出しても疑問に思わない映画と、それなりに説明しているのに納得いかず疑問に思う映画があります。その映画のテイストや表現の詐術の問題でしょうけど、一筋縄ではいかない…こういうことを探求するのもおもしろいかもしれませんね。


浅野忠信や香川照之など俳優陣が語っていますが、『劔岳 点の記』では片道9時間も歩いて撮影場所に行き、そこで僅か1〜2カットの撮影をして帰ってくるということもあったようです。おそらく、そういう撮影の積み重ねの2年間だったのでしょう。

わしの友人が山岳カメラマンで劔岳を撮影しています。彼にしても、一瞬のシャッターチャンスのために何時間でも岩場で待ってますもんね。フィルターとかの使用を嫌い、自然光だけで撮っています。“山屋”にはそういう一途でガンコなタイプが多いですね(笑)。

木村監督の「本物のロケ地に本物の俳優を置いただけ」という発言がありましたが、それは「俳優には当時(明治時代)と同じ苦労をしてもらった」という意味でしょう。
ドキュメンタリーに近いのかもしれませんね。新田次郎の原作からして、実際にあった話がもとですしね。でも、そういう映画こそ詐術が効くと思う。ドキュメンタリーぽく見せる詐術もあるでしょうからね。映画であれば、きっとそれが隠されているはずだと思うのです。

きっと、「苦しみがあるからこそ、人生はたのしい」「困難の先にあるもののために歩む」みたいな映画なのでしょう。山岳映画という名の…寡黙な男たちの生き方を伝える映画に違いない。それを考えると、希望が見えるような気持ちになってきます。わしの人生も冬山登山なみに厳しいけれど、泣きながら夢を見ましょうか。

などとウダウダいいながら観たものでした。
ど〜でもエ〜ガですが、されどエ〜ガでもあるって感じ。
こんなふうにゴタクを並べないと映画をたのしめないわしなのです(笑)。


観て、まず…驚いたのが[新宿バルト9]の一番大きな9シアターがほぼ満席だったこと。上映館数も少なく、公開初日の…舞台挨拶の次の回ってこともあるでしょうけど、地味でアナログな山岳映画があそこまで客でいっぱいとは思わなかった。大ヒット…ってことだったんでしょうねぇ。
もっとも、だからこそ次の『春を背負って』を撮ることができたんでしょうからね。

さらに驚いたのが、映画としてよかったってこと。思っていたよりずっとよかったですね。
当時の地元住民との軋轢のことは原作に比べて薄めてありましたが、それはやむを得ないところでしょう。
「何をしたかではなく、何のために」という「地図をつくることの意義=生きることの意味」というようなことは、むしろ原作よりも伝わってきました。また、山での測量という仕事の手順などは、緻密な文章でいくら読んでもよくわからない。それがビジュアルだと一目瞭然ですよね。やっぱり、映画はエ〜ガね!
さらに、富山駅に見立てた地元の古い駅など、明治という時代が違和感なく丁寧に表現されていました。当時の人々の気質も含めてです。こんな感じだったんだろうなぁって思いました。

もちろん、不満点もあります。
音楽過多だと感じました。音楽監督は池辺晋一郎でしたが、場面によっては…もっと静謐でもよかったと思ったのです。どうしてあんなに音楽が必要だったんでしょう。特に最初の…視察登山のあたりなどですけどね。
自然描写は確かに美しいのですが、山での寒さなど…空気感はそれほど伝わってこなかった。場面によっては、凍傷になりそうなくらいの冷たさを表現してもよかったのではないかと思いました。

そして、山頂にいたる表現です。ヘリコプター撮影を拒んだという気持ちもわかるのですが、正直…少しものたりなかったのです。第一、山頂全体が把握できない。カメラを置く場所もないから撮影はたいへんというのはわかるのですが、もっと盛り上げられなかったのかという気もしないではありません。たとえば、そこだけヘリコプター撮影があってもよかったんではないでしょうか。あるいは、前劔あたりから望遠で撮影するとか(してるのかな)…どうなんですかねぇ。ハンドカメラを持って登ってそれらしく見せるとか…そういうもっと映画的表現があってもよかったような気もしましたけどね。つまり、ウソをホントだと思わせる一種の詐術が必要だったのではないかということです。
それとも、大自然とはそういうものを受け入れないほど大きいのでしょうか。

もっと緩急があってもと思ったわけですが、逆に(原作にはない)滑落シーンでは妙に取って付けたような印象も受けました。 これも、大自然は小細工を受け付けないってことでしょうか。
記録(原作)とは少し変えた登頂アタック隊のメンバーのことも含めて、試行錯誤の末とは思うのですが…山頂にいたるシークェンスではアッサリしたものを感じてしまったのです。

自分の登山経験でいえば、苦しくて苦しくて「あと一歩(はぁ)、あと一歩(はぁ)、や…やったぁ〜山頂だぁ〜!」っていう内なる高鳴りがありました。そういうのはこの映画からあまり感じなかったですね。不思議と汗を感じさせない淡々とした映画でした。
内よりも外側からの視点。おそらく…そこがきっと、カメラマン木村大作の目なんでしょうね。

山頂といえば、発見されたアレとコレの表現にも疑問が残りました。それをどういうふうに見せてくれるのかと期待していましたが、1000年前として…1000年後は本当にあんなものですかねぇ。


とはいえ、この映画、わしはほとんど満足です。よかったですよ。感激です。
主役級の俳優はもちろん、チョイ役の人たちまで輝いてましたしね。エンド・クレジットでは「仲間たち」として皆の名前が並列に流れました。家族的っていうのか、こういう山仲間ならではの配慮もいいですね。

主人公の柴崎と妻のことは場面として多くはないのですが、「ただいま」といえば「おかえり」といってもらえるのはいいですね。最終的な…自分の居場所なのかな。男にとって…妻の笑顔がどれほど大事かってことですよね。
映画では省かれていたけど、原作では妻は毎日のように手紙を書いてるんですよね。

「何をしたかではなく、何のために」というのは深く強く感じ入ったところですが、人生のもとを取る…というのか、家族を持つということも深く考えさせられました。柴崎もきっと、そう思いながら山を歩いていたのでしょう。


ネットで他の人の感想も読んでみましたら、「自然は美しいがCGが今ひとつ」というのがありました。CG? どこのこと? 雪崩や吹雪は…もちろん、本物を待っての撮影ではなく人為的なものでしょう。 リアリティは必要だけど、リアルであってはケガ人も出る。でも、それだって本物のうちといえると思う。
ウソを加えないようにしても、そこにウソを見る。
昨今はCGで本物らしさを追求し、逆に本物に対してCGを感じるのだとしたら…滑稽な時代ですなぁ。

わしも登頂した山ですから、ほとんどの場面で…しみじみとそれがどこなのかがわかりました。DVDでもう一度、ゆっくり観賞してみたいものです。

実は確認したいこともあるのです。この映画は明治時代の登山道のない未踏の山の話なのに、もしかすると尾根筋に現代の登山道が映っていたかもしれない。それを指摘した人はまだいないんですけどね。
もしそうだったとしたら、そここそCGで消す必要があったでしょう(笑)。


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CGはコマーシャルガールの略か

「点の記」は、エガったですね~。
わたしも観ました。

そうですか、
「CGがいまひとつ」
ですか。
いまやCGは当たり前、
という流れがありますね。

歌舞伎を観ていて
近ごろよく感じることがあります。
「え?」と思える場面で
客がよく笑うのです。

人間の首が飛ぶ場面で、
それはみるからに作り物です。
いまのCG全盛の映画を見慣れたひとたちには、
おそろしくチャチに見えることでしょう。
でもそこが滑稽に思えるのでしょうね。
ナマ首だけでなく、
人間が演じる犬や馬が出てきてもそう。
クスクスと笑い声があがります。
だけど噺の筋を追っていると、
それはひどく悲しい場面だったりするのに。

CGですべてを見せてくれることに慣れてしまって、
想像力が衰えているのかな~。

本物の偽物 偽物の本物

ナナひろみサマ

その昔、円谷プロでつくった映画の特撮シーンに本物の船を使ったら偽物(玩具)だと思われたって話がありました。偽物のほうが本物だと思われてしまうという話でした。余談ですが…思い出しました。
ところで、CGのコマーシャルガールっていいですね。NGも好きです。
あ、これはネコ爺の略ですよ!
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