中山道を歩く 14
11/5から7日で、醒ヶ井宿から草津宿を歩いた。最後の中山道歩き…これを記録しておこう。
江戸日本橋から京都三条大橋までの538キロ。それを歩ききるまでに7年ほどもかかった。皇女和宮は東下りに3カ月かかったとかいわれてるから…わしらはずいぶんと遅い。
ネコ爺・ハナ爺のスケジュール。天候、気温。それに宿の問題。さらにコロナもあった。しかし、とにかく一応は無事に歩き終えたのだ。
今回は新幹線で米原まで行って…醒ヶ井宿からスタートだ。実際には見えないが琵琶湖に沿って…以前行った草津宿の東海道と重なる「追分道標」まで歩いたのだ。
映画『ブレット・トレイン』ではマトモに米原駅を使ってたな。そこから普通列車で醒ヶ井へ。「ヶ」があったりなかったりする。さめがいだ。
醒ヶ井宿はすばらしくよかった。宿といっても…昔のこと。でも、ここでは地元の人にしっかり守られてた。
ヤマトタケルが使ったといわれる居醒泉(いさめがい)という湧き水があり、古色蒼然とした佇まい。“湧き水コーヒー”を飲んだ店にはTOKIOの国分太一の写真とかもあったな。
加茂神社にはお参りしたが、季節が違うらしく“梅花藻”は見られなかった。
彦根へ出て、[東横イン]に宿泊。同じ宿に2泊するのだ。
宿に、同い歳くらいの自転車乗りのグループがいた。元気だなぁ。
中山道を自転車で走ることは…できない。登山道のような険しい道もあるからだ。
翌日、「瞼の母」番場忠太郎の[番場宿]へ向かう。宿場といっても、今は本陣跡の石像とかがあるくらい。
[番場宿]の規模に関する記録をまとめた郷土史家、江竜さんの話を聞いたりもした。
摺針峠から琵琶湖が見えるはずだったが…道を間違えたか。中山道が線路に沿ってるわけがない。そのかわりにトンネルを通った。暗いけどユニークでよかったよ。
[鳥居本宿][高宮宿][愛知川宿]…このあたり、記憶があいまいになってる。[高宮宿]は電車で飛ばしたかもしれない。近江鉄道があるんだな。近鉄かと思った。
帰りに雨になった。雨具を着たのは初めてだった。駅がスーパーマーケットとして活用されていたが、客はいなかったな。過疎化してるところが多いのだ。
昔の旅姿を模した彦根市のモニュメントがよかった。
[東横イン]に宿泊して、3日目。
彦根といえば、この日は横道にそれた。彦根城の近くに行ったのだ。町の雰囲気が…荘厳でよかった。
もしも、信長の安土城が健在していたら…琵琶湖の水は城のそばまで来ていたはずで、そうなると彦根城は…とか思いは広がっていく。
[愛知川宿][守山宿]を通って[草津宿]の「追分」の道標に向かう。
ところが、「追分」が見つからない。中山道と東海道の接点だ。地元の人に聞くが知らないという。
そこまで行けば前回と通じる。6人くらいに聞いたが知らないので、草津駅の職員に聞いて…やっと判明。
草津川跡地が公園の「de愛ひろば」になっていた。そこのレストランで食事。
かつて、[草津宿]は中山道と東海道が合流する大きな宿場だった。自分が住んでる街を知らないって何だろう。情けない。
とはいっても、外国人に日本の歴史を問われたとしても…わしは応えられないだろうな。
「東海道を歩いたので、今は中山道を歩いてる」という人に出会った。いるんだねぇ。そういう人が。
ガイドにガイドしているという川端さんという物知りに出会って、しばらく一緒に歩いた。わしは児島幸多の「中山道を歩く」を参考テキストにしていたが、このオジサンもそうだったのかもね。
町々で人々が暮らしてる。行き交う人に、わしは昔の彼女の面影を見たりもした(笑)。
思えば…7年かかった。中山道はながい道のりだったな。
わしらは同い歳の爺さんだ。生きてるうちに歩きたいと冗談でいってたが、ホント…ギリギリだもんねぇ(笑)。
もしも、「京都三条大橋から江戸日本橋(東京)まで歩くのですが、経験者として一緒に行ってもらえませんか」といわれたら…。
そんなことをいい合って、ネコ爺・ハナ爺は苦笑い。
ありがと! ハナ爺。おおきに、だんだん!
江戸日本橋から京都三条大橋までの538キロ。それを歩ききるまでに7年ほどもかかった。皇女和宮は東下りに3カ月かかったとかいわれてるから…わしらはずいぶんと遅い。
ネコ爺・ハナ爺のスケジュール。天候、気温。それに宿の問題。さらにコロナもあった。しかし、とにかく一応は無事に歩き終えたのだ。
今回は新幹線で米原まで行って…醒ヶ井宿からスタートだ。実際には見えないが琵琶湖に沿って…以前行った草津宿の東海道と重なる「追分道標」まで歩いたのだ。
映画『ブレット・トレイン』ではマトモに米原駅を使ってたな。そこから普通列車で醒ヶ井へ。「ヶ」があったりなかったりする。さめがいだ。
醒ヶ井宿はすばらしくよかった。宿といっても…昔のこと。でも、ここでは地元の人にしっかり守られてた。
ヤマトタケルが使ったといわれる居醒泉(いさめがい)という湧き水があり、古色蒼然とした佇まい。“湧き水コーヒー”を飲んだ店にはTOKIOの国分太一の写真とかもあったな。
加茂神社にはお参りしたが、季節が違うらしく“梅花藻”は見られなかった。
彦根へ出て、[東横イン]に宿泊。同じ宿に2泊するのだ。
宿に、同い歳くらいの自転車乗りのグループがいた。元気だなぁ。
中山道を自転車で走ることは…できない。登山道のような険しい道もあるからだ。
翌日、「瞼の母」番場忠太郎の[番場宿]へ向かう。宿場といっても、今は本陣跡の石像とかがあるくらい。
[番場宿]の規模に関する記録をまとめた郷土史家、江竜さんの話を聞いたりもした。
摺針峠から琵琶湖が見えるはずだったが…道を間違えたか。中山道が線路に沿ってるわけがない。そのかわりにトンネルを通った。暗いけどユニークでよかったよ。
[鳥居本宿][高宮宿][愛知川宿]…このあたり、記憶があいまいになってる。[高宮宿]は電車で飛ばしたかもしれない。近江鉄道があるんだな。近鉄かと思った。
帰りに雨になった。雨具を着たのは初めてだった。駅がスーパーマーケットとして活用されていたが、客はいなかったな。過疎化してるところが多いのだ。
昔の旅姿を模した彦根市のモニュメントがよかった。
[東横イン]に宿泊して、3日目。
彦根といえば、この日は横道にそれた。彦根城の近くに行ったのだ。町の雰囲気が…荘厳でよかった。
もしも、信長の安土城が健在していたら…琵琶湖の水は城のそばまで来ていたはずで、そうなると彦根城は…とか思いは広がっていく。
[愛知川宿][守山宿]を通って[草津宿]の「追分」の道標に向かう。
ところが、「追分」が見つからない。中山道と東海道の接点だ。地元の人に聞くが知らないという。
そこまで行けば前回と通じる。6人くらいに聞いたが知らないので、草津駅の職員に聞いて…やっと判明。
草津川跡地が公園の「de愛ひろば」になっていた。そこのレストランで食事。
かつて、[草津宿]は中山道と東海道が合流する大きな宿場だった。自分が住んでる街を知らないって何だろう。情けない。
とはいっても、外国人に日本の歴史を問われたとしても…わしは応えられないだろうな。
「東海道を歩いたので、今は中山道を歩いてる」という人に出会った。いるんだねぇ。そういう人が。
ガイドにガイドしているという川端さんという物知りに出会って、しばらく一緒に歩いた。わしは児島幸多の「中山道を歩く」を参考テキストにしていたが、このオジサンもそうだったのかもね。
町々で人々が暮らしてる。行き交う人に、わしは昔の彼女の面影を見たりもした(笑)。
思えば…7年かかった。中山道はながい道のりだったな。
わしらは同い歳の爺さんだ。生きてるうちに歩きたいと冗談でいってたが、ホント…ギリギリだもんねぇ(笑)。
もしも、「京都三条大橋から江戸日本橋(東京)まで歩くのですが、経験者として一緒に行ってもらえませんか」といわれたら…。
そんなことをいい合って、ネコ爺・ハナ爺は苦笑い。
ありがと! ハナ爺。おおきに、だんだん!