中山道を歩く 6
やっと中山道のつづきを歩くことができた。今年1/5に高崎まで歩いて以来だ…。コロナ問題があって、出かけることができなかったのだ。
今回は高崎宿からのつづきだったが、天候のこともあり逆ルートを選んだ。つまり、軽井沢宿から高崎宿コースだ。
軽井沢宿→坂本宿→松井田宿→安中塾→板鼻宿→高崎宿
7/31早朝、新宿から大宮へ。北陸新幹線に乗り換えて、軽井沢駅には8:00前に到着。8:00過ぎ到着の花爺と合流。8:30ネコ爺&花爺の歩きスタート。曇り26度の予報。
軽井沢は何もかもが新しく、歴史の欠片もない。さて、どこが旧中山道だろう。高級別荘地だが、さびれた別荘も多い。濃い霧がかかり朝の光が神々しい。ブロッケン現象が見えるのはこんなときだろうと思っていたら、そんな中に野生のシカが登場。
ネコ爺&花爺はひたすら碓氷峠を登った。
11:30に標高1200メートルの熊野皇大神社に到着。ここは長野県と群馬県の県境。車で来た人が何人かいた。お昼の“力餅うどん”を食べた店の人から、足に山ヒル除けのスプレーをかけてもらった。目指すは群馬側の坂本宿。
碓氷峠はのんびり中山道って感じじゃなく、かなり険しい。登山そのものだ。急峻はいいすぎだが、急坂には違いない。この登山道を和宮の駕籠が通ったのか。命がけだっただろうな。
関ケ原に向かう徳川秀忠の人馬は…よくここを通って進軍できたものだ。馬頭観音の石像があったが、そのために造られたんだろうか。もっと古い時代の物かな。
「学校があった」とか「茶屋があった」とか、その痕跡もあった。「熊に注意」や「昔は山賊が出た」とかの立て札もあったな。なぜか古いバスもあったが、どうやって運んできたんだろう。
関所跡もあったから、昔は山の中の華やかな街道だったに違いない。
途中、“柱状節理”と呼ばれる柱状の岩があったが、ということは…海底が隆起した場所なのだろうか。
「安政遠足」という立て札がたくさんあった。「とおあし」と読む。そうか、ここは日本のマラソンの発祥の地で、映画『サムライ・マラソン』の舞台だったんだ。思わぬところで映画とつながった。
こんなふうに難所の碓氷峠には発見が多かったが、実は…もっとも驚くべき発見が山ヒルだった。雨季が長かったせいか、吸血鬼は足元にウヨウヨといた。大きいのは10センチ近くある。気持ちわるい。熱に反応するのか吸い付いてくる。
16:00坂本宿の予定宿に到着。この日の万歩計記録は42105歩。
山ヒルに襲われ…両足首も首も血だらけだったが、宿の人は手慣れたもので「梅干しの皮を貼るといいですよ」と渡してくれた。
風呂(お湯でヒル傷から出血)とビールと食事で生き返る。
翌8/1は梅雨が明けそうな空の下、8:00に歩きスタート。28度晴れの予報。
坂本は宿場としての案内版とかを丁寧に残してくれていた。その町々で、中山道の保護もまちまち。能力のある町のリーダーがいるかいないか…かな。
関所が残っていた。そこに野生のサルもいた。サルのいる日常ってすごい。
釜めしの横川。そうか。北陸新幹線ができていなかったころ、横川で釜めし弁当を買って、その釜をずっと大事にしていたっけな。
松井田宿に向かう途中、「五科の茶屋本陣」があったが、時間が早くて入れなかった。
「夜泣き地蔵」と「茶釜石」があった。昔、旅人が地蔵の首石で馬の荷物のバランスを取ったら、首石が「五科恋しやぁ」と泣くので元に戻したという。
金剛寺に寄ったが、新しく造り直した寺みたいだった。補陀寺に行きたかったが、通り過ぎたみたい。
わしらの道中をずっと、妙義山が見守ってくれていた。恥ずかしいあんなことやこんなことも…。
安中宿は…そうそう、「安政遠足」は安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬のために、安中城から碓氷峠の熊野神社まで走らせたものだ。この“侍マラソン”は今でも毎年5月に行われているらしい。
[猫のひげ]というネコグッズの店を見つけて、吸い寄せられるように…入ったりもした。やすらぎのひと時。
疲れた。…ただ歩いた。少林山達磨寺の標識があったが、そこには寄らなかった。板鼻宿には碓氷川の「徒歩渡し」というのがあったようだが、そこにも寄らずにひたすら歩いた。
高崎駅到着は17:00くらい。もう足が一歩も前へ出ないほどに疲れた。万歩計では53987歩で、測定以来最高記録だった。
中山道の地図上では軽井沢~高崎は41.2キロだが、わしらのスマホ万歩計ではその倍近い表示だ。ウロウロしたからか。…よくわからない。
高崎では宿泊せず、そのまま東京に帰った。
「何でそんなに歩くの?」と呆れられたが、自分でもよくわからない。
カッコつけていうなら、悠久の歴史の中に身を浸すというのが好きなんだろうな。歴史が見えてくる。昔の人と同じように、同じ道を歩くことによって、ロマン心が呼び起こされる気がする。ま、好事家ってことかな。
今回から「中山道を歩く」という小さな旗を付けて歩いた。アマビエのイラスト入り。物笑いになるかと思ったら、それによって親切にしてもらえたみたいだ。そういえば、ハナ爺が旗を落として、わしが3キロほど歩いて探しに戻ったっけ…。
ともかく、これで…東京・日本橋からスタートして軽井沢までをつないだことになる。目的地…京都・三条大橋までの約3分の1だ。
オマケを少々。坂本宿の人の話。
夏に若い娘さんたちがホットパンツ姿で碓氷峠に行って、泣きべそで帰ってきたという。あちこち、ヒルに吸われている。宿の男性はヒルを取ってやったらしい。「若い女性の足に触れられて、しかも感謝までされたんだ」とシアワセそうに語ってくれた(笑)。
そういえば…司馬遼太郎の小説の中で、忍者が自分の身体に10匹くらいヒルを付けて悪い血を吸わせるという場面があった。なるほど、それもありかと思ったり…いや、やっぱり気持ち悪い。わしはやりたくないな(笑)。
今回は高崎宿からのつづきだったが、天候のこともあり逆ルートを選んだ。つまり、軽井沢宿から高崎宿コースだ。
軽井沢宿→坂本宿→松井田宿→安中塾→板鼻宿→高崎宿
7/31早朝、新宿から大宮へ。北陸新幹線に乗り換えて、軽井沢駅には8:00前に到着。8:00過ぎ到着の花爺と合流。8:30ネコ爺&花爺の歩きスタート。曇り26度の予報。
軽井沢は何もかもが新しく、歴史の欠片もない。さて、どこが旧中山道だろう。高級別荘地だが、さびれた別荘も多い。濃い霧がかかり朝の光が神々しい。ブロッケン現象が見えるのはこんなときだろうと思っていたら、そんな中に野生のシカが登場。
ネコ爺&花爺はひたすら碓氷峠を登った。
11:30に標高1200メートルの熊野皇大神社に到着。ここは長野県と群馬県の県境。車で来た人が何人かいた。お昼の“力餅うどん”を食べた店の人から、足に山ヒル除けのスプレーをかけてもらった。目指すは群馬側の坂本宿。
碓氷峠はのんびり中山道って感じじゃなく、かなり険しい。登山そのものだ。急峻はいいすぎだが、急坂には違いない。この登山道を和宮の駕籠が通ったのか。命がけだっただろうな。
関ケ原に向かう徳川秀忠の人馬は…よくここを通って進軍できたものだ。馬頭観音の石像があったが、そのために造られたんだろうか。もっと古い時代の物かな。
「学校があった」とか「茶屋があった」とか、その痕跡もあった。「熊に注意」や「昔は山賊が出た」とかの立て札もあったな。なぜか古いバスもあったが、どうやって運んできたんだろう。
関所跡もあったから、昔は山の中の華やかな街道だったに違いない。
途中、“柱状節理”と呼ばれる柱状の岩があったが、ということは…海底が隆起した場所なのだろうか。
「安政遠足」という立て札がたくさんあった。「とおあし」と読む。そうか、ここは日本のマラソンの発祥の地で、映画『サムライ・マラソン』の舞台だったんだ。思わぬところで映画とつながった。
こんなふうに難所の碓氷峠には発見が多かったが、実は…もっとも驚くべき発見が山ヒルだった。雨季が長かったせいか、吸血鬼は足元にウヨウヨといた。大きいのは10センチ近くある。気持ちわるい。熱に反応するのか吸い付いてくる。
16:00坂本宿の予定宿に到着。この日の万歩計記録は42105歩。
山ヒルに襲われ…両足首も首も血だらけだったが、宿の人は手慣れたもので「梅干しの皮を貼るといいですよ」と渡してくれた。
風呂(お湯でヒル傷から出血)とビールと食事で生き返る。
翌8/1は梅雨が明けそうな空の下、8:00に歩きスタート。28度晴れの予報。
坂本は宿場としての案内版とかを丁寧に残してくれていた。その町々で、中山道の保護もまちまち。能力のある町のリーダーがいるかいないか…かな。
関所が残っていた。そこに野生のサルもいた。サルのいる日常ってすごい。
釜めしの横川。そうか。北陸新幹線ができていなかったころ、横川で釜めし弁当を買って、その釜をずっと大事にしていたっけな。
松井田宿に向かう途中、「五科の茶屋本陣」があったが、時間が早くて入れなかった。
「夜泣き地蔵」と「茶釜石」があった。昔、旅人が地蔵の首石で馬の荷物のバランスを取ったら、首石が「五科恋しやぁ」と泣くので元に戻したという。
金剛寺に寄ったが、新しく造り直した寺みたいだった。補陀寺に行きたかったが、通り過ぎたみたい。
わしらの道中をずっと、妙義山が見守ってくれていた。恥ずかしいあんなことやこんなことも…。
安中宿は…そうそう、「安政遠足」は安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬のために、安中城から碓氷峠の熊野神社まで走らせたものだ。この“侍マラソン”は今でも毎年5月に行われているらしい。
[猫のひげ]というネコグッズの店を見つけて、吸い寄せられるように…入ったりもした。やすらぎのひと時。
疲れた。…ただ歩いた。少林山達磨寺の標識があったが、そこには寄らなかった。板鼻宿には碓氷川の「徒歩渡し」というのがあったようだが、そこにも寄らずにひたすら歩いた。
高崎駅到着は17:00くらい。もう足が一歩も前へ出ないほどに疲れた。万歩計では53987歩で、測定以来最高記録だった。
中山道の地図上では軽井沢~高崎は41.2キロだが、わしらのスマホ万歩計ではその倍近い表示だ。ウロウロしたからか。…よくわからない。
高崎では宿泊せず、そのまま東京に帰った。
「何でそんなに歩くの?」と呆れられたが、自分でもよくわからない。
カッコつけていうなら、悠久の歴史の中に身を浸すというのが好きなんだろうな。歴史が見えてくる。昔の人と同じように、同じ道を歩くことによって、ロマン心が呼び起こされる気がする。ま、好事家ってことかな。
今回から「中山道を歩く」という小さな旗を付けて歩いた。アマビエのイラスト入り。物笑いになるかと思ったら、それによって親切にしてもらえたみたいだ。そういえば、ハナ爺が旗を落として、わしが3キロほど歩いて探しに戻ったっけ…。
ともかく、これで…東京・日本橋からスタートして軽井沢までをつないだことになる。目的地…京都・三条大橋までの約3分の1だ。
オマケを少々。坂本宿の人の話。
夏に若い娘さんたちがホットパンツ姿で碓氷峠に行って、泣きべそで帰ってきたという。あちこち、ヒルに吸われている。宿の男性はヒルを取ってやったらしい。「若い女性の足に触れられて、しかも感謝までされたんだ」とシアワセそうに語ってくれた(笑)。
そういえば…司馬遼太郎の小説の中で、忍者が自分の身体に10匹くらいヒルを付けて悪い血を吸わせるという場面があった。なるほど、それもありかと思ったり…いや、やっぱり気持ち悪い。わしはやりたくないな(笑)。