博士の愛した数式を愛するもエ〜ガね
HAL爛漫の桜の季節となりましたね。消費税も8%になりました。あ、HALというのは…『2001年宇宙の旅』に出てきたコンピュータの名前です。
出だしから脱線でしたね。今、Rihwaの「春風」を聴きながら書いています。
http://www.youtube.com/watch?v=uG0U0iT9y1A
その昔、DVDで『博士の愛した数式』を観ました。桜のシーンが印象に残っています。
『博士の愛した数式』は『メメント』のアイデアをパクッてつくられた映画だといった人がいて、そんなこともあって…わしはこの映画を敬遠して観てなかったんです。
確かに、限られた時間しか記憶できないという点ではクリストファー・ノーラン監督の『メメント』と同じかもしれない。
復讐劇の『メメント』では、主人公はメモとして身体に入れ墨をしていました。対して、『博士の〜』では七夕の短冊のようなメモを上着にぶらさげている。もしかすると、原作者は『メメント』を参考にしたのかもしれませんね。でも、仮にそうだとしても…それだけのことです。パクるとかってレベルじゃない。
『博士の愛した数式』の主人公は…数字と愛を交わす。数学と恋愛をしているかのごとく、なのです。そこにはわしが知らなかった魅惑の数世界がありました。数字が導く先には数の美がある。秩序がある。摩訶不思議な広がりが伝わってきたんです。
算数嫌いのわしが…そう感じたんですよ。
監督は小泉堯史。『雨あがる』のときは「黒澤監督ならばどう撮ったか」という一念でつくった感じでしたが、今回のはしっかり小泉作品になっていると思いました。こうなると『阿弥陀堂だより』も観るしかありませんなぁ。
原作小説は小川洋子。美しくて静かな文学作品でした。見事ですね。余談ですが…わしは以前から、この人に魅力を感じていたのです。
博士と呼ばれる老数学者(寺尾聡)が主人公で、彼は記憶が80分しかもたない。原作では家政婦(深津絵里)が「私」として語ります。でも、映画では彼女の子どものルートが大きくなって数学教師(吉岡秀隆)になり…母親と博士の話を生徒たちに語るという回想の形をとっています。わかりやすくなっていますね。
とはいっても、原作と映画に大きな違いはありません。博士の義理のお姉さん(浅丘ルリ子)も登場しますが、映画のほうがより意味深なスタンスかもしれません。
それにしても、テレビドラマの『北の国から』に始まった吉岡秀隆の語りは心地いいですな。語りから美しく切ない妙なる調べにつながり…タイトルが入る。その瞬間、わしは心ごと持って行かれる感じでした。
余談ですが、映画には黒澤映画『赤ひげ』の長坊役や『どですかでん』の主役だった頭師佳孝もチラッと出ていて…うれしくなりました。 東宝のフランケンシュタインのも…実は彼だったんですよね。
数は人間がつくったものではなく、人類誕生より前から存在している。人間はそれを掘り起こして発見し、証明するだけなのだという。驚きです。だとすれば、それはもう…神の領域ですよね。まさに、ピタゴラスの「万物は数なり」です。
わしが最も興味を持ったのはここなのです。それこそ、自然界の数に関する不思議は数知れず…でしょう。
東野圭吾の「容疑者Xの献身」には「数学は宝探しに似ている」という表現がありましたっけ。
そういえば、円周率πは3.1415926535…と蟻の行列のようにつづいている。どこまでつづくかわからないと聞いたことがあります。確か、どこの位まで発見したなんてニュースもありました。やはり、人間がつくったものではないんですね。不思議です。
それをピアノ演奏にすると…なんと心地よいことか。ずっと聴いていたくなる。
https://www.youtube.com/watch?v=OMq9he-5HUU
また、0(ゼロ)とは非存在を存在する数で、最小の自然数1よりも1だけ小さい数だという。インドの数学者が発見したそうですが、0の定義と理屈がすばらしい。
数というのは…神秘的で、なんて崇高なロマンがいっぱいなんでしょう。
『博士の愛した数式』では友愛数とか完全数とか虚数とか、いろいろと出てきます。博士はほとんど、数の話(と野球の話)しかしませんからね。
その中で、特に愛情を持って語られるのが素数です。1と自分と同じ数以外では割り切れないオンリーワンの数。それは2、3、5、7、11、13、17、19…と無限につづいてゆく。
素数のことはわしも知っていました。科学番組の『コスモス』で広く知られるようになったカール・セーガン博士の『コンタクト』というSF映画でも、宇宙人と交信するために素数が使われていましたよね。
神秘といってしまえばそれまでですが、地球誕生より…もっと前から存在していたとされる数の正体とはいったい何なんでしょう。重力とか惑星の周期とか、そういうあたりから数学が発見され証明されていったのかもしれない。月に置かれたモノリスのように、人に気づかれるのを待っていた。そんなイメージでしょうか? 気が遠くなりそうです。数字や数学記号は単なるそれだけの記号かと思っていたんですが、そう単純ではなさそうです。
厳密には…博士が何をどう感じていたのか、わからない。でも、感じることの大切さだけはわかるのです。レーチェル・カーソンじゃないけど、まさに『センス・オブ・ワンダー』の世界です。
文字には字義や言霊があるように、数字にも似たような…それ以上の意味があるんですね。浅はかでした。わしはまだまだ…知るだけで、感じる心が足らなかったのか。詳しく触れられてはいないけど、わしは…ここに心が動いたのです。
博士は常に、「80分の今」を生きているのです。でも、今は永遠かもしれない。
博士の愛した数式。オイラーの公式が持つ意味と…響きと輝き、そこには永遠の真実があるのか。それとも…。いや、無駄な説明はやめておきましょう。
どうぞ、映画をご覧になってください。
ジミでマジメでジジくさい映画かもしれませんけどね。
わしには新鮮でした。陶酔してしまいそうでした。映画と原作小説の『博士の愛した数式』に感動したのです。いや、恋したというべきかもしれませんね。
ひとつの疑問が浮かびました。
数字といえばコンピュータを思い出しますが、『博士の愛した数式』には…映画でも原作でもコンピュータのことはまったく出てこなかった。博士はほとんど隔離状態だからかな? 時代設定が古いから? でも、30年前としてもコンピュータはありましたよね。まだ、一般的ではなかったのかな。話がややこしくなるので省いたのかもしれませんね。
コンピュータといえばHALを思い出すわけですが、あと30年もすれば…人口知能は人間を超えるらしい。
また、人間の意識をコンピュータに移植して、肉体が滅んでも半永久的に意識を残すことも可能になるという。それって一種の不老不死ですよね。
そうなるともう、脅威のワンダー・オブ・ワンダーですなぁ。
それとも、エイプリル・フールでしょうか。
出だしから脱線でしたね。今、Rihwaの「春風」を聴きながら書いています。
http://www.youtube.com/watch?v=uG0U0iT9y1A
その昔、DVDで『博士の愛した数式』を観ました。桜のシーンが印象に残っています。
『博士の愛した数式』は『メメント』のアイデアをパクッてつくられた映画だといった人がいて、そんなこともあって…わしはこの映画を敬遠して観てなかったんです。
確かに、限られた時間しか記憶できないという点ではクリストファー・ノーラン監督の『メメント』と同じかもしれない。
復讐劇の『メメント』では、主人公はメモとして身体に入れ墨をしていました。対して、『博士の〜』では七夕の短冊のようなメモを上着にぶらさげている。もしかすると、原作者は『メメント』を参考にしたのかもしれませんね。でも、仮にそうだとしても…それだけのことです。パクるとかってレベルじゃない。
『博士の愛した数式』の主人公は…数字と愛を交わす。数学と恋愛をしているかのごとく、なのです。そこにはわしが知らなかった魅惑の数世界がありました。数字が導く先には数の美がある。秩序がある。摩訶不思議な広がりが伝わってきたんです。
算数嫌いのわしが…そう感じたんですよ。
監督は小泉堯史。『雨あがる』のときは「黒澤監督ならばどう撮ったか」という一念でつくった感じでしたが、今回のはしっかり小泉作品になっていると思いました。こうなると『阿弥陀堂だより』も観るしかありませんなぁ。
原作小説は小川洋子。美しくて静かな文学作品でした。見事ですね。余談ですが…わしは以前から、この人に魅力を感じていたのです。
博士と呼ばれる老数学者(寺尾聡)が主人公で、彼は記憶が80分しかもたない。原作では家政婦(深津絵里)が「私」として語ります。でも、映画では彼女の子どものルートが大きくなって数学教師(吉岡秀隆)になり…母親と博士の話を生徒たちに語るという回想の形をとっています。わかりやすくなっていますね。
とはいっても、原作と映画に大きな違いはありません。博士の義理のお姉さん(浅丘ルリ子)も登場しますが、映画のほうがより意味深なスタンスかもしれません。
それにしても、テレビドラマの『北の国から』に始まった吉岡秀隆の語りは心地いいですな。語りから美しく切ない妙なる調べにつながり…タイトルが入る。その瞬間、わしは心ごと持って行かれる感じでした。
余談ですが、映画には黒澤映画『赤ひげ』の長坊役や『どですかでん』の主役だった頭師佳孝もチラッと出ていて…うれしくなりました。 東宝のフランケンシュタインのも…実は彼だったんですよね。
数は人間がつくったものではなく、人類誕生より前から存在している。人間はそれを掘り起こして発見し、証明するだけなのだという。驚きです。だとすれば、それはもう…神の領域ですよね。まさに、ピタゴラスの「万物は数なり」です。
わしが最も興味を持ったのはここなのです。それこそ、自然界の数に関する不思議は数知れず…でしょう。
東野圭吾の「容疑者Xの献身」には「数学は宝探しに似ている」という表現がありましたっけ。
そういえば、円周率πは3.1415926535…と蟻の行列のようにつづいている。どこまでつづくかわからないと聞いたことがあります。確か、どこの位まで発見したなんてニュースもありました。やはり、人間がつくったものではないんですね。不思議です。
それをピアノ演奏にすると…なんと心地よいことか。ずっと聴いていたくなる。
https://www.youtube.com/watch?v=OMq9he-5HUU
また、0(ゼロ)とは非存在を存在する数で、最小の自然数1よりも1だけ小さい数だという。インドの数学者が発見したそうですが、0の定義と理屈がすばらしい。
数というのは…神秘的で、なんて崇高なロマンがいっぱいなんでしょう。
『博士の愛した数式』では友愛数とか完全数とか虚数とか、いろいろと出てきます。博士はほとんど、数の話(と野球の話)しかしませんからね。
その中で、特に愛情を持って語られるのが素数です。1と自分と同じ数以外では割り切れないオンリーワンの数。それは2、3、5、7、11、13、17、19…と無限につづいてゆく。
素数のことはわしも知っていました。科学番組の『コスモス』で広く知られるようになったカール・セーガン博士の『コンタクト』というSF映画でも、宇宙人と交信するために素数が使われていましたよね。
神秘といってしまえばそれまでですが、地球誕生より…もっと前から存在していたとされる数の正体とはいったい何なんでしょう。重力とか惑星の周期とか、そういうあたりから数学が発見され証明されていったのかもしれない。月に置かれたモノリスのように、人に気づかれるのを待っていた。そんなイメージでしょうか? 気が遠くなりそうです。数字や数学記号は単なるそれだけの記号かと思っていたんですが、そう単純ではなさそうです。
厳密には…博士が何をどう感じていたのか、わからない。でも、感じることの大切さだけはわかるのです。レーチェル・カーソンじゃないけど、まさに『センス・オブ・ワンダー』の世界です。
文字には字義や言霊があるように、数字にも似たような…それ以上の意味があるんですね。浅はかでした。わしはまだまだ…知るだけで、感じる心が足らなかったのか。詳しく触れられてはいないけど、わしは…ここに心が動いたのです。
博士は常に、「80分の今」を生きているのです。でも、今は永遠かもしれない。
博士の愛した数式。オイラーの公式が持つ意味と…響きと輝き、そこには永遠の真実があるのか。それとも…。いや、無駄な説明はやめておきましょう。
どうぞ、映画をご覧になってください。
ジミでマジメでジジくさい映画かもしれませんけどね。
わしには新鮮でした。陶酔してしまいそうでした。映画と原作小説の『博士の愛した数式』に感動したのです。いや、恋したというべきかもしれませんね。
ひとつの疑問が浮かびました。
数字といえばコンピュータを思い出しますが、『博士の愛した数式』には…映画でも原作でもコンピュータのことはまったく出てこなかった。博士はほとんど隔離状態だからかな? 時代設定が古いから? でも、30年前としてもコンピュータはありましたよね。まだ、一般的ではなかったのかな。話がややこしくなるので省いたのかもしれませんね。
コンピュータといえばHALを思い出すわけですが、あと30年もすれば…人口知能は人間を超えるらしい。
また、人間の意識をコンピュータに移植して、肉体が滅んでも半永久的に意識を残すことも可能になるという。それって一種の不老不死ですよね。
そうなるともう、脅威のワンダー・オブ・ワンダーですなぁ。
それとも、エイプリル・フールでしょうか。