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ぼくの手塚治虫先生を偲ぶもエ~ガね

今日は手塚治虫先生の命日だ。没後30年。手塚先生はわしの先生の先生にあたる。
30年前…つまり、平成元年にわしが書いたものがある。少し長いが、ここに再録してみよう。





 まさに激動の1年だった。時が経つほどに、歴史はこの平成元年を噛みしめるだろう。
 2月9日、昭和を代表するメッセンジャーが去った。40年を現役かつ、第一線のマンガ家でありつづけた手塚治虫先生…。近代以降のわが国の表現ジャンルにおいて、先生に比肩する人はいなかったと思う。ひとりの作家の活動と存在が、大衆のイメージ文化の中にこれほど広く作用した例はないと思うからだ。

 2月11日、東久留米の手塚邸は深い悲しみに包まれた。驚くほど参列者の多い密葬だった。「先生、ありがとうございました」と何度も繰り返すマネージャーの言葉に胸が熱くなった。やがて出棺となり、ゆっくりと走り出す霊柩車。あふれ出る涙をぬぐうこともできなかった。そのときのぼくは…先生が多くの人に慕われ、惜しまれていることに感動さえしていた。そして、なぜか浮かんでくるのは先生の笑顔だけだった。

 思い出すのはあの日、手塚先生のお仕事を手伝った日々のこと。ぼくの直接の師は藤子不二雄先生だが、藤子スタジオにいたとき、臨時で手塚プロへ応援に行ったことがあるのだ。
 先生は深々とおじぎをされると「ここで仕事してください」と机を掃除してくださった。大先生なのになんて腰が低いんだろう。誰に対しても同じ距離で接する巨匠に、ぼくは畏れおののき、思い描いていたイメージが壊れなかったことに感激したものだ。

 そして、もっと驚いたのはその仕事ぶり。手塚先生って『ブラック・ジャック』みたい…というのがそのときの印象だ。つまり、ブラック・ジャックが同時にいくつかのオペをするように、先生は別々の机に別々のマンガ原稿を置いて、それをほとんど同時に執筆した。編集者が仕事ぶりを見に来ると、その社の原稿を描くというぐあいだった。しかも、下描きをせず、鉛筆で軽くアタリをとるだけでいきなりペンで描き出す。これを天才の所業といわずして何といえばいいのだ。
 そういえば、先生はよく「ぼくのは絵じゃなく、象形文字のようなものだから」といっておられたが、まさにそうだと思う。文字を書くときは下書きをしないものだから…。

 ぼくはアシスタントとして数々のミスをしながらも、厚かましく必要以上に手塚先生のまわりをうろつき、「先生の古い本を持ってるんですよ」と話しかけた。先生はぼくの話に「それらの本、ぼくに譲ってくれませんか」といわれた。作者自身が持っていない貴重な本だったのだ。「だめですよ。ぼくの宝物ですから。いくら手塚先生でもお譲りするわけにはいきません」とぼくがいうと、先生は子どものようにうれしそうに笑った。あのときの、とびっきりの笑顔を見ることは…もうできない。
 手塚先生が60歳で亡くなったと知ったとき、「まだ若かったのに」というより、「あんなハードな生活をされてよく60歳まで生きられたな…」というのが正直な思いだった。それほど、先生の創作活動は不眠不休のすさまじいものだったのだ。


 少年時代、まさに手塚先生はぼくの先生だった。人は空気を吸って生きるように、ぼくは手塚マンガを吸って育ったのだ。学校では決して教えてくれないトータルな世界観といった難しいことを、先生はマンガでわかりやすく語りかけてくれた…。いや、今までになかった口語体のマンガ表現言語でといい変えよう。
 マンガが市民権を持たされていなかった当時にあって、小学生のぼくらがそのすばらしさを見極めていたことを誇りに思う。親や学校の先生が教えてくれるどんなことよりも、手塚イメージワールドは楽しく、大きく、広く、深く、重く…貴重な存在だったのだ。

 マンガ家手塚治虫は“ソラリスの海”のように次から次へとぼくらの前に新しい作品を提示した。マンガでこれほど壮大な物語が描けるのかというほどのストーリーテリングのたくみさ。手塚先生はマンガ全集だけでも300巻という膨大な量の作品群を残したが、ぼくらのような読者はそれをただおもしろがって読むだけでなく、いつしか相対的に物事を見る視点を身につけていったのだ。それは手塚先生の目の高さに達することでもあった。
 
 たとえば、『鉄腕アトム』は表向きこそロボットヒーローものだ。PTAへの模範答弁的な側面を持たせながら、その実、人間の子どもにもロボットにもなれず、苦悶しながらアイデンティティを確立していく。児童心理学的なドラマツルギーだといえる。子ども心にもおぼろげにそう理解していた。表面のヒューマニズムの中には先生独自のニヒリズムがあり、その奥の奥にほんとうのやさしさ…手塚イズムが感じられたのだ。
 さみしくて悲しいアトム。しかし、それに負けるものかと立ち上がる姿がいじらしかった。それはそのまま当時の手塚先生の心象ではないかと思われ、それがまた、ぼく自身にもつながっていた。今にして思えば、ぼくの中の無意識のある部分は、そのまま手塚作品の深層と同一化していたのだろう。

 お断りしておくが、手塚作品というのは印刷マンガのことであって、テレビアニメのことではない。手塚作品と聞いてテレビアニメを思い出す人は手塚作品を知らないに等しいのだ。動きも声も音楽もない印刷マンガのほうがよほど動き、音楽も聴こえてきたのに、それをアニメ化することによって逆に見る者の想像力を限定してしまった。いうならば、マンガのほうがよほどアニメだったのだ。
 イメージはイメージを越えて、手塚ワールドは無限に広がっていた。手塚アニメではいわゆる実験アニメと呼ばれる作品が好きだが、それもよく考えてみるとマンガ的な発想によってできていることが多いと思う。

 アニメ作家では宮崎駿氏の作品が好きだ。その宮崎氏が若き日に、自分の絵が尊敬していた手塚先生に似てくるのでなんとか抜け出そうと、手塚先生の影響を受けて描いた段ボールいっぱいのマンガ原稿を焼き捨てたという。映画『魔女の宅急便』の中で、ウルスラという画家志望のキャラクターが自分の絵ができずに悩んだと語るシークェンスがあったが、あれはそのままかつての宮崎氏の悩みでもあったのだろう。

 子どものときに読んだマンガを大人になって読みかえすと古色蒼然としているものだが、手塚作品にはそれがなかった。むしろ、そうかこういう意味があったのかと気づかせてくれた。こちらが成長すれば、より作品連山の大きさが見えてきた。それはまるで車窓から見る遠くの山々のようにいつまでもそこにあり、決して飽きさせてはくれないのだ。
 後からつづくぼくらは手塚先生の“心”を継いで、その霊峰に挑みルートファイティングをしなければならない。宮崎氏がアニメ分野に独自の道を開いたように…。


 ぼくにとって、これ以上の出会いはなかった。おおげさにいうならば、ぼくは手塚作品を通して…自我と出会い、自分が自分であることの確信をつかんだのだから。手塚作品は、ぼくに視覚的・精神的刺激を与えてくれ、ぼくの中の精神イメージは先生のマンガ表現言語を借りることによってほんの少し具象化できたのだ。

 思い起こせば、ぼくの人生はすっぽり手塚マンガの中に含まれてしまう。もしも手塚先生が存在していなかったら、ぼくの人生はまったく違うものになっていただろう。もろろん、日本の大衆文化そのものが大きく違っていたであろうことは疑う余地がない。
 わが国では金銭的価値が先立って、文化を見極められる人が少ない気がする。文化のことを英語でカルチャーというが、そこには耕作するという意味がある。まさしく、手塚先生はマンガ界を耕してマンガを文化の地位にまで高めたのだ。
 マンガを越えたマンガ。マンガ家を越えた表現者。日本は、世界は、偉大なクリエィーターを失った…。

 『インタビューズ』という深夜テレビがあり、「昭和の時代で感動したことは何ですか?」と質問していた。ぼくならこう応えるだろう。「この地球に生まれ、手塚治虫という人と同時代を生き、その人が創り出した作品を読むことができたこと。それが何よりも感動したことです」と。

 手塚先生は宇宙へ去った…。しかし、先生の精神エネルギーは永久に地球を廻っている。『火の鳥』のように…。





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