関ケ原に思いを馳せるもエ~ガね
鎮魂の意味もあり、わしはこの時期になるとカラオケで「防人の歌」「CLOSE YOUR EYES」…そして、「群青」を唄う。
気になるのは歌の画面に軍艦や戦闘機など、当時のニュース映像が使われているものがあること。辛い…。どういうセンスなんだろうと思う。
単に予算削減かな。以前、カラオケ歌画面の絵を安価で描いてほしいという打診もあったから…。
それはさておき、その昔、この時期に関ケ原の戦いがあった。
火蓋が切って落とされたのは慶長5年(1600年)の9月15日だ。これは豊臣と徳川の戦いじゃない。徳川本隊は真田の兵に阻まれて関ケ原に間に合わなかったらしい。むしろ、豊臣の内紛といえるんじゃないかな。その上に鎮座したのが徳川家康だろう。
原田眞人監督の映画『関ケ原』が公開される。それに合わせて、まだ読んでなかった司馬遼太郎の「関ケ原」上・中・下巻を読んだ。いや、正確には下巻の途中まで読んだ。3冊の原作小説と2時間半の映画では情報量が違いすぎる。原作を読んでから映画を観ると「あのシーンがない」とか映画に不満が残るかもしれない。だから、途中まで読んで…観てから残りを読むことにしたのだ。
原作では作者が解説をしながら小説世界に入っていく。当然、基本的には史実だ。が、巧みに書かれているため、どこまでが史実なのか創作なのかわからなくなる。初芽という人物がそうだ。わしはそんな名前を聞いたことがないので架空だと思うが、もしかしたら歴史の影にいたのか。
いや、そんなはずはあるまい。おそらく、石田三成の純粋さを浮き彫りにするために創作された人物だろう。
三成が「おれはすこし老けた。しかし、これ以上老けることはあるまい」と気になるセリフをいったところで原作をストップしよう。つづきは映画を観てからだ。
https://youtu.be/L98V5YBHbTI
観終えて、残りの原作とともに噛みしめている。わしは原田監督のこれまでの作品を観てきて…安心していたし、期待していた。
2時間半に収めるため原作を割愛したところも多いが、逆に付け加えたところもあった。わしとしては、その付け加え部分に興味を持った。
監督はオーソン・ウェルズやエイゼンシュタインを再研究したという。なるほどと思う。
槍を使っての合戦場面には工夫を感じたし、何より迫力があった。仮に…原作に「両軍が激突した」と書かれていたとして、それを映像で見せるのは並大抵のことじゃない。実際、どう表現しているのかに興味があったわけだが、そこには満足できた。
が、セリフが聞き取りにくい。各地の方言が入り乱れるわけだから当然だが、字幕がほしかった。英語の字幕版はあるそうだが、日本語でほしかった。隣席の人の反応からもそれを感じた。
この種の映画では歴史資料…的なものを求めてしまうせいかもしれない。地名、人名、官名、役職名など、複雑になる。しかも昔の言葉づかいだ。おそらく、DVDになったときは字幕選択ができるようになるんじゃないかな。
セリフに関しては『シン・ゴジラ』の影響もあったのかなとふと思った。
合戦以外のシーンではやはり…どんなに映画が長くても文字での情報にはかなわない。常々、小説と映画は別物といっているのにそんなことを思ってしまった。三成や家康や他の人物の対立関係など、なぜ戦わねばならなかったのかという熱い思いが観ている人に伝わるだろうかと。原作の下巻半分を読み残していてもそう思う。そう思ってしまったのはやはり、先に原作を読み出したことによる弊害かもしれない。割愛しても登場人物は多い。
と、不安になって劇場内を見ると、ほとんどが高齢の客だった。原作を読んでいるか、同等の歴史知識がありそうだ。心配はいらないのだろう。
ただ、予備知識もなく下地を知らないで観にくる若い人に…三成の豊臣への一途な気持ち、徳川を許せなかった思いや無念が伝わるだろうか。と、心配になった。でも、若い人はこの映画を観ないかな。おもしろいとかって種類の映画とは違う気もするし…おもしろいと思ってはいけないのかもしれない。
ダイイチダイマンダイキチ…。三成の「大一大万大吉」はまるで民主主義のスローガンか呪文か念仏のようだ。One for All, All for One. ひとりが万人に尽くし、万人がひとりに尽くす…。心に響いた。
自分の周りで起こっていることは自分の責任でもある…と考えただろうか。
三成の正義というか、美学…的なものを原作から強く感じていたが、映画からはそれほど強く受けなかった。わしの頭の中で原作と映画が戦っていたのかもしれない。あるいはほどよく混ざり合ったのか。
原作、読了。この天下分け目の決戦のことは知っているつもりでいた。が、隊のそれぞれの人数のことなどは原作で知った。細かく調べ尽くされている。
数の上でこそ家康側よりも三成側のほうが多かったが、一枚岩じゃない。三成側で必死に戦っているのは三割程度。他は傍観しているという異様な戦いだったようだ。それでも、あと一歩というところまで家康軍を追い詰めている。
「風に遭ったもみがらのように」とか、文章表現もすさまじい。大谷吉継の潰滅の様子など胸が詰まる。ところどころで映画を思い出した。
[甲陽軍鑑]によると、国を滅ぼす大将には4つの特徴があるという。それは「愚か」「臆病」「強すぎる」「利口すぎる」だという。三成は利口すぎたのだろうか。
新幹線に乗ったら必ず関ケ原が見える席に座る、という人の夕刊記事を読んだことがある。どこに誰の陣があり、誰がどう戦ったかをイメージするのだという。「小早川卑怯!」と心の中で叫ぶのだとか…。そこまでの知識があれば、もっと深く理解できるだろうと思ったものだった。
そういえば、小早川についてはすこし変えてあったな。監督の思惑も歴史の真実もわからない。
『本能寺ホテル』では信長をやさしい性格にしていたが、それだってあり得ないことじゃない…かもしれない。
映画での…ものいわぬ野仏のシーンが好きだった。初芽のまなざしにも似て…。
戦争とはしょせん、将の作品だという。されど…。
利に負けた義の三成…。
先に仕掛けたのは石田三成らしい。でも、先に仕掛けるように仕向けたのは徳川家康かもしれない。純粋な三成を扇動したのだろうか。実際、原作でもそのように触れられていた。
歴史の真実はわからない。もはや、ロマンの彼方だろう。
もしかすると…同じように、日本が先に戦争を仕掛けるように仕向けたのは…ルーズベルト大統領だったのかもしれない。
それはともかく、ひとつ思いついた。一度、関ケ原に行ってみよう。
以前から思い描いてはいたのだが、中仙道を歩いて関ケ原に行ってみようと思う。
歴史に思いを馳せながら…。
気になるのは歌の画面に軍艦や戦闘機など、当時のニュース映像が使われているものがあること。辛い…。どういうセンスなんだろうと思う。
単に予算削減かな。以前、カラオケ歌画面の絵を安価で描いてほしいという打診もあったから…。
それはさておき、その昔、この時期に関ケ原の戦いがあった。
火蓋が切って落とされたのは慶長5年(1600年)の9月15日だ。これは豊臣と徳川の戦いじゃない。徳川本隊は真田の兵に阻まれて関ケ原に間に合わなかったらしい。むしろ、豊臣の内紛といえるんじゃないかな。その上に鎮座したのが徳川家康だろう。
原田眞人監督の映画『関ケ原』が公開される。それに合わせて、まだ読んでなかった司馬遼太郎の「関ケ原」上・中・下巻を読んだ。いや、正確には下巻の途中まで読んだ。3冊の原作小説と2時間半の映画では情報量が違いすぎる。原作を読んでから映画を観ると「あのシーンがない」とか映画に不満が残るかもしれない。だから、途中まで読んで…観てから残りを読むことにしたのだ。
原作では作者が解説をしながら小説世界に入っていく。当然、基本的には史実だ。が、巧みに書かれているため、どこまでが史実なのか創作なのかわからなくなる。初芽という人物がそうだ。わしはそんな名前を聞いたことがないので架空だと思うが、もしかしたら歴史の影にいたのか。
いや、そんなはずはあるまい。おそらく、石田三成の純粋さを浮き彫りにするために創作された人物だろう。
三成が「おれはすこし老けた。しかし、これ以上老けることはあるまい」と気になるセリフをいったところで原作をストップしよう。つづきは映画を観てからだ。
https://youtu.be/L98V5YBHbTI
観終えて、残りの原作とともに噛みしめている。わしは原田監督のこれまでの作品を観てきて…安心していたし、期待していた。
2時間半に収めるため原作を割愛したところも多いが、逆に付け加えたところもあった。わしとしては、その付け加え部分に興味を持った。
監督はオーソン・ウェルズやエイゼンシュタインを再研究したという。なるほどと思う。
槍を使っての合戦場面には工夫を感じたし、何より迫力があった。仮に…原作に「両軍が激突した」と書かれていたとして、それを映像で見せるのは並大抵のことじゃない。実際、どう表現しているのかに興味があったわけだが、そこには満足できた。
が、セリフが聞き取りにくい。各地の方言が入り乱れるわけだから当然だが、字幕がほしかった。英語の字幕版はあるそうだが、日本語でほしかった。隣席の人の反応からもそれを感じた。
この種の映画では歴史資料…的なものを求めてしまうせいかもしれない。地名、人名、官名、役職名など、複雑になる。しかも昔の言葉づかいだ。おそらく、DVDになったときは字幕選択ができるようになるんじゃないかな。
セリフに関しては『シン・ゴジラ』の影響もあったのかなとふと思った。
合戦以外のシーンではやはり…どんなに映画が長くても文字での情報にはかなわない。常々、小説と映画は別物といっているのにそんなことを思ってしまった。三成や家康や他の人物の対立関係など、なぜ戦わねばならなかったのかという熱い思いが観ている人に伝わるだろうかと。原作の下巻半分を読み残していてもそう思う。そう思ってしまったのはやはり、先に原作を読み出したことによる弊害かもしれない。割愛しても登場人物は多い。
と、不安になって劇場内を見ると、ほとんどが高齢の客だった。原作を読んでいるか、同等の歴史知識がありそうだ。心配はいらないのだろう。
ただ、予備知識もなく下地を知らないで観にくる若い人に…三成の豊臣への一途な気持ち、徳川を許せなかった思いや無念が伝わるだろうか。と、心配になった。でも、若い人はこの映画を観ないかな。おもしろいとかって種類の映画とは違う気もするし…おもしろいと思ってはいけないのかもしれない。
ダイイチダイマンダイキチ…。三成の「大一大万大吉」はまるで民主主義のスローガンか呪文か念仏のようだ。One for All, All for One. ひとりが万人に尽くし、万人がひとりに尽くす…。心に響いた。
自分の周りで起こっていることは自分の責任でもある…と考えただろうか。
三成の正義というか、美学…的なものを原作から強く感じていたが、映画からはそれほど強く受けなかった。わしの頭の中で原作と映画が戦っていたのかもしれない。あるいはほどよく混ざり合ったのか。
原作、読了。この天下分け目の決戦のことは知っているつもりでいた。が、隊のそれぞれの人数のことなどは原作で知った。細かく調べ尽くされている。
数の上でこそ家康側よりも三成側のほうが多かったが、一枚岩じゃない。三成側で必死に戦っているのは三割程度。他は傍観しているという異様な戦いだったようだ。それでも、あと一歩というところまで家康軍を追い詰めている。
「風に遭ったもみがらのように」とか、文章表現もすさまじい。大谷吉継の潰滅の様子など胸が詰まる。ところどころで映画を思い出した。
[甲陽軍鑑]によると、国を滅ぼす大将には4つの特徴があるという。それは「愚か」「臆病」「強すぎる」「利口すぎる」だという。三成は利口すぎたのだろうか。
新幹線に乗ったら必ず関ケ原が見える席に座る、という人の夕刊記事を読んだことがある。どこに誰の陣があり、誰がどう戦ったかをイメージするのだという。「小早川卑怯!」と心の中で叫ぶのだとか…。そこまでの知識があれば、もっと深く理解できるだろうと思ったものだった。
そういえば、小早川についてはすこし変えてあったな。監督の思惑も歴史の真実もわからない。
『本能寺ホテル』では信長をやさしい性格にしていたが、それだってあり得ないことじゃない…かもしれない。
映画での…ものいわぬ野仏のシーンが好きだった。初芽のまなざしにも似て…。
戦争とはしょせん、将の作品だという。されど…。
利に負けた義の三成…。
先に仕掛けたのは石田三成らしい。でも、先に仕掛けるように仕向けたのは徳川家康かもしれない。純粋な三成を扇動したのだろうか。実際、原作でもそのように触れられていた。
歴史の真実はわからない。もはや、ロマンの彼方だろう。
もしかすると…同じように、日本が先に戦争を仕掛けるように仕向けたのは…ルーズベルト大統領だったのかもしれない。
それはともかく、ひとつ思いついた。一度、関ケ原に行ってみよう。
以前から思い描いてはいたのだが、中仙道を歩いて関ケ原に行ってみようと思う。
歴史に思いを馳せながら…。