怪物を考えるもエーガね
これまでウダウダは内容に触れないように書いてきた。今回は禁を破って、触れてみる。
注意! ネタバレになるので、映画『怪物』を観てない人は読まないでほしい。
気にしない人なら読んでもらってもいいんだけどね。
草原を歩く足もと。これはたぶん、星川少年なんだろう。次にビル火災…遠くでそれを見ている麦野少年と母親だから、おそらく、火災の原因は星川なんだろう。ファイヤースターターを持ってたしね。
火災の上にタイトル『怪物』が入る。
いや、でも…そう思ってはいけないのかもしれない。そう思うと映画の術中にはまったということか。わしが思っただけでそうではないのかも…。まるでわからない。
是枝裕和監督の映画はどれもスッキリしない。問題提起はするものの…答えは見せないのだ。いわないのだ。沈黙で伝える。そこが彼のやさしさだろうとも思うのだが、違うかな。
湖のある街。これはわしも中山道を歩いた…諏訪湖なんじゃないかな。そこで3つの章に分かれて話は進む。
ビル火災場面は3度出る。母親編、教師編、子ども編だ。
『怪物』はクロサワ映画の“羅生門スタイル”でできている。いや、楽器音とか文字とか…3つのパートはもっと複雑に絡み合ってる。ひとつのパートで小さく聴こえていた音が、別のパートでは大きく傍で聴こえる。3つが合わさって、完璧ではないがひとつの絵になるのだ。
昔、『羅生門』を観た人が「3度も同じ場面が出てきて、無駄な映画だ」といってた。わからない人にはどういってもダメだろうね。
ともかく、同じ場面でも角度を変えて観ればまるで違う。どっちが被害者でどっちが加害者かわからなくなる。映画『フランケンシュタイン』のように、人のためによかれとやったことが違う意味で伝わったりもするのだ。
熱心な母親(早織)はモンスターペアレントかもしれないし、ダメな教師(保利)は実は熱心ないい先生かもしれない。噂話とかで物事を判断しちゃいけないよね。それは…そのことは痛烈に感じた。脚本の坂元裕二の力だろうな。
『怪物』は純粋で切ない少年たちのラブストーリーだろう。胸が締め付けられる。わしは『ぼくのエリ 200歳の少女』を思い出したりもした。
小学5年生というのが興味深い。実はその歳に…わしは美少年に胸がときめいた経験がある。その時、わしはクィアな自分が病気ではないかと焦ったのだ。わしのその感情はそのときだけで消えたが、麦野少年は育っていったんじゃないかな。
マイノリティ…LGBTQだっけ? それぞれの視点から、かつて子どもだった人は観るべきなんだろうな。そんな気もする。
わしはこの映画の…笑顔で走るラストシーンを観て、「銀河鉄道の夜」がベースだろうこともあり、ふたりの少年は土砂に飲み込まれて亡くなったのかもしれないと思った。眩しいほどの光の世界…。生まれ変わったのかもしれないと思ったのだ。
でも、違う。今はそうではないと思っている。生まれ変わらないといけないのは彼らのほうではないんだよね。
怪物は誰…といわれれば、誰でもない。
「怪物だーれだ?」という子どもたちの遊び、いわば怪物というのはそれだけのことだ。
世の中…誰でもが怪物になるかもしれない。誰でもが豚の脳になり得る。ということは、生まれ変わらなければならないのは…。
子どもは純粋ゆえに残酷だ。かわいい。怖い。スッキリしてきた頭の中でわしはそんなことを思っている。
是枝監督はこれまで、幸せになりたいと願うフツーの人々を描いてきた。
難しい映画。よくできた映画だけど、わかるけど…いや、わからないけどわかったのかもしれない。
坂本龍一のピアノが心地よく響いてたな。
とにかく、劇場が観客でいっぱいだったことに驚いたな。
こういうヘヴィーな映画がヒットするなら邦画も発展するかもと思ったりね。
https://youtu.be/WSa_cBXOULA
メディアリテラシーだってそうだろう。ニュースが事実の一面を伝えたとしても、それが真実とはいえないのだ。
注意! ネタバレになるので、映画『怪物』を観てない人は読まないでほしい。
気にしない人なら読んでもらってもいいんだけどね。
草原を歩く足もと。これはたぶん、星川少年なんだろう。次にビル火災…遠くでそれを見ている麦野少年と母親だから、おそらく、火災の原因は星川なんだろう。ファイヤースターターを持ってたしね。
火災の上にタイトル『怪物』が入る。
いや、でも…そう思ってはいけないのかもしれない。そう思うと映画の術中にはまったということか。わしが思っただけでそうではないのかも…。まるでわからない。
是枝裕和監督の映画はどれもスッキリしない。問題提起はするものの…答えは見せないのだ。いわないのだ。沈黙で伝える。そこが彼のやさしさだろうとも思うのだが、違うかな。
湖のある街。これはわしも中山道を歩いた…諏訪湖なんじゃないかな。そこで3つの章に分かれて話は進む。
ビル火災場面は3度出る。母親編、教師編、子ども編だ。
『怪物』はクロサワ映画の“羅生門スタイル”でできている。いや、楽器音とか文字とか…3つのパートはもっと複雑に絡み合ってる。ひとつのパートで小さく聴こえていた音が、別のパートでは大きく傍で聴こえる。3つが合わさって、完璧ではないがひとつの絵になるのだ。
昔、『羅生門』を観た人が「3度も同じ場面が出てきて、無駄な映画だ」といってた。わからない人にはどういってもダメだろうね。
ともかく、同じ場面でも角度を変えて観ればまるで違う。どっちが被害者でどっちが加害者かわからなくなる。映画『フランケンシュタイン』のように、人のためによかれとやったことが違う意味で伝わったりもするのだ。
熱心な母親(早織)はモンスターペアレントかもしれないし、ダメな教師(保利)は実は熱心ないい先生かもしれない。噂話とかで物事を判断しちゃいけないよね。それは…そのことは痛烈に感じた。脚本の坂元裕二の力だろうな。
『怪物』は純粋で切ない少年たちのラブストーリーだろう。胸が締め付けられる。わしは『ぼくのエリ 200歳の少女』を思い出したりもした。
小学5年生というのが興味深い。実はその歳に…わしは美少年に胸がときめいた経験がある。その時、わしはクィアな自分が病気ではないかと焦ったのだ。わしのその感情はそのときだけで消えたが、麦野少年は育っていったんじゃないかな。
マイノリティ…LGBTQだっけ? それぞれの視点から、かつて子どもだった人は観るべきなんだろうな。そんな気もする。
わしはこの映画の…笑顔で走るラストシーンを観て、「銀河鉄道の夜」がベースだろうこともあり、ふたりの少年は土砂に飲み込まれて亡くなったのかもしれないと思った。眩しいほどの光の世界…。生まれ変わったのかもしれないと思ったのだ。
でも、違う。今はそうではないと思っている。生まれ変わらないといけないのは彼らのほうではないんだよね。
怪物は誰…といわれれば、誰でもない。
「怪物だーれだ?」という子どもたちの遊び、いわば怪物というのはそれだけのことだ。
世の中…誰でもが怪物になるかもしれない。誰でもが豚の脳になり得る。ということは、生まれ変わらなければならないのは…。
子どもは純粋ゆえに残酷だ。かわいい。怖い。スッキリしてきた頭の中でわしはそんなことを思っている。
是枝監督はこれまで、幸せになりたいと願うフツーの人々を描いてきた。
難しい映画。よくできた映画だけど、わかるけど…いや、わからないけどわかったのかもしれない。
坂本龍一のピアノが心地よく響いてたな。
とにかく、劇場が観客でいっぱいだったことに驚いたな。
こういうヘヴィーな映画がヒットするなら邦画も発展するかもと思ったりね。
https://youtu.be/WSa_cBXOULA
メディアリテラシーだってそうだろう。ニュースが事実の一面を伝えたとしても、それが真実とはいえないのだ。