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キック・アスのつづきに期待してもエ〜ガね

週末、たのしみにしている映画が公開されます。『キック・アス 2』です。日本ではタイトルに「ジャステス・フォーエバー」と付いていますが、原題は単に「2」で、つまりは続編です。
監督だったマシュー・ヴォーンは今回、プロデューサーに回っています。

さらに過激になった暴力描写について、またもや…あれこれ物議をかもすでしょうねぇ。
これに対して、主演のクロエ・グレース・モレッツが「映画は映画なんだから」とコメントしています。すごくわかる。
彼女は1作目のときも、自身が演じる役のキワどいセリフについて「私がいってるんじゃない。映画のキャラがいってるんだから」と語っていました。彼女は敬虔なクリスチャンの家庭に育ったのですが、現実と創作物である映画とをちゃんと分けて考えている。その点で共感しますね。

よく「暴力を子どもが観てマネする」とかって親がいます。当然それもわかるけど、家庭での教育の問題もあるのではないでしょうか。それをどう観るかの教育が必要だと思うわけですよ。
大昔に…ジェット噴射で空を飛ぶロボットのマネをして、子どもが屋根から飛んでケガをしたことがありました。そういうときも非難は作者に向くわけです。「デタラメなマンガを描くからだ」と。親の責任はどこへ行ったんでしょう。

まぁ、それはともかく、新作は…未見の人のためにもウダウダ語れないので、1作目の『キック・アス』ことをウダウダ書きましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=0DUfQqR-Gk4
http://www.youtube.com/watch?v=eU16j9eu7d0

『キック・アス』って、もっとヘタレなコメディ調の映画かと思ってたんですよ。ところが、刺激的で…ガツンとくる映画でしたね。おもしろかった。オタク心満載。毒もタップリありますしね。浅くて荒唐無稽なようで…実は深い作品だと思いました。コミックの向うに現実があり、現実の向うにコミックがある。一言でいえば、映像で描いたマンガですな。

映像のキレもいいし、センスもいいし、音楽の使い方もカッコよかった。わしは『キック・アス』を観ながら何度も「クール!」と叫びたくなりましたよ。最も成功したアメコミ原作の映画の1本といえるのではないでしょうか。

アメリカで企画が通らなくてイギリスで資金を集めてつくった自主映画(インデペンデント映画)みたいな情報も流れていました。 東京でも上映の映画館は少なかったし、確か…後で出たレンタルDVDもTSUTAYAだけでしたよね。
それなのに思っていた以上の大作で、しかもよくできていたので驚いたものです。

原作はマーヴェルコミックのヒット作を生み出してきたマーク・ミラーとジョン・ロミータ・Jr.で、わしの大好きな『ウォンテッド』もマーク・ミラーでしたね。今作も『ウォンテッド』に通じるものがあります。同種のコーフンを覚えましたからね。
監督はマシュー・ヴォーンで、イギリス出身の人です。ブラッド・ピット主演の映画に関わったことがあるそうで、その縁でブラピが製作に入っていたんでしょう。

『キック・アス』はコミックの原作が先にあって、それを映画にしたというより…ふたつがほとんど同時進行だったらしい。最後は映画のほうが先にできたようです。コミックの原作を超えているのかもしれません。

主人公は…アメコミヒーローに憧れてるヘタレな普通の高校生のデイヴ=キック・アス。それに、バットマン&ロビンみたいな父娘の復讐劇が重なる過激なファンタジーというところでしょうか。
『スターウォーズ』なども参考にしたみたいですね。強いハン・ソロ船長を主人公にせず、弱いルークを主人公にしているあたりです。

主人公のデイヴ役はアーロン・ジョンソンですが、わしはこの俳優をよく知りませんでした。確か、ジョン・レノンの若いときを演じたんじゃなかったかな。
彼の役は原作者の投影であろうし、わしらみたいなオタク的タイプとも共感する部分が大きいんじゃないんでしょうか。
彼のことを笑って観てたけど、笑えなかったりもするんですよねぇ。

バットマン&ロビンみたいな親子の父のほうのデーモン=ビッグ・ダディをニコラス・ケイジが演じていて、彼の存在感は大きい。さすがの特別出演ですよ。
ニコラス・ケイジはマンガファンとして有名ですよね。『ATOM』ではDr.テンマの声もやってましたしね。

ビッグ・ダディの娘ミンディ=ヒット・ガール(設定上は11歳)をクロエ・グレース・モレッツが演じています。
ヒット・ガールを演じるクロエがこの映画の大きな魅力です。小さな身体に父の思いを背負って、彼女はキュートにクールに行動する。映画の成功のカギは彼女にあるといっても過言じゃない。というか、実際そうでしょう。でも、まだ子ども(当時13歳)なので、いろいろ物議をかもしたようです。教育的な配慮からとかね。制作段階からソレが大きな壁だったようです。配給会社が決まらなかったのもソレでしょう。

日本のマンガにはこういう種の題材がいろいろありますよね。
たとえば、『どろろ』とかも、『キック・アス』みたいな感じでできればよかったのにって思いましたよ。アクションのできる子役(『HINOKIO』時代の多部未華子とか)を使ってね。やっぱ、無理か(笑)。

ビッグ・ダディ&ヒット・ガール親子のいじらしいほどの気持ちはよくわかる。当然、主人公のキック・アスの気持ちもわかるし、悪役の気持ちだってわかる。笑いの中に、切実なものさえ伝わってきました。

防弾ガラス越しの観賞っていうのと反対で、弾丸飛び交う現場に自分がいるかのようで怖かった。とはいっても、やっぱり映像によるマンガなんですな。リアルなのにマンガ。この絶妙のバランスって、どういうことでしょう。日本に生まれ育ったマンガの文法が西洋の映像の中に生きている? ジャパニメーションを通して伝播した? 観る側のわしにオタク心があるからってだけではないと思うのです。
日本の場合、マンガでは表現できても映像ではここまでの洗練したセンスは難しい気がします。

ヒット・ガールが撃ちまくる前に「××××野郎。せいぜい楽しませてよ」っていうとき、首を一瞬傾かせる。そのナマイキなしぐさが好きです(笑)。 空中で2丁拳銃に装弾するシーンなど、「ありえねぇ!」はずなのにカッコいい!
ともかく、言葉も汚いし…子ども向きの映画ではありません。ご注意ください。


そして、『キック・アス 2』はさらに過激なバイオレンス的表現かもしれません。メインの役で出演したジム・キャリーが暴力描写を批判しているくらいですから…。くれぐれもご注意ください。

公開初日に観るでしょうが…さて、続編のデキはどうでしょうか。ヒット・ガールは高校生となりマンガチックな設定も薄れてくるだろうし、今回は団体戦の様相みたいだし…。
リアルとユーモアが絶妙のバランスで、アクションにもキレがあり、構成にも乱れがなく…1作目のようにおもしろかったら、ほとぼりが冷めたころに感想を書きましょう。
でも、それほどでもなかったら書きません。あしからず。

http://www.youtube.com/watch?v=qc6tL8cd9KQ
http://www.youtube.com/watch?v=CtangAJ7FR8
http://www.youtube.com/watch?v=nQJuGjcI0q4


ヒポクラテスたち&の・ようなものを語るもエ〜ガね 2

「ヒポクラテスたち&の・ようなものを語るもエ〜ガね」のつづきです。
長くなりましたので、後半を「2」として独立させます。



別の映画の話をしましょうか。
森田芳光監督の『の・ようなもの』は1981年公開の…落語家のタマゴ=真打ちになりたいと願う二ツ目を中心にした青春グラフィティです。コメディかな。このタイトルは3代目・三遊亭金馬の「居酒屋」にあるフレーズからのようです。

主演は伊藤克信で、兄貴分に尾藤イサオ、トルコ嬢役に秋吉久美子。女子高生役が誰だったかは…忘れました。ほかには有名棋士やチラッとマンガ家の永井豪ちゃんとかも出てましたね。

わしの記憶違いでなければ、『の・ようなもの』が自主映画を撮っていた森田監督の一般映画のデビュー第1作です。森田芳光は学生時代に落研に所属していた人ですから、落語家になりたいと思っていたのかもしれません。おそらく、彼の自伝的要素も入っているんでしょう。それだけに思い入れもタップリなのです。わしの大好きな…人間くさくて愛しい作品ですね。

NHKの朝ドラで上方を舞台にした「ちりとてちん」というのがありましたが、いうならばあの世界です。東京が舞台ですけどね。井の頭公園も出てました。
「真打ちになりたいね」「うん。なりたいね」とさみしげに語り合っていた落語家の弟子たちの姿が忘れられません。祭りのあとのようなさびしさと温かさがありました。このときの、デジタルな落語を話す二ツ目のことが妙に気になったものでした。下手なとこがわしみたいだなって(笑)。

わし、渋谷のカルチャー教室で落語を習っていたことがあるんです(笑)。人前で話したりすることも…基本的には好きですしね。プロの話し方にも興味を持っています。あ、どうでもいいですね。

落語といえば…立川談志師匠が高座で、車椅子のお客に向かって「その車椅子スペースを確保するために何人分の座席をはずしたと思ってるんだ」とか「車椅子のまま酒を呑んで、交番の前で暴れてみろ。そこで、“だいじょうぶですか? 家まで送りましょうか?”といわれたら、それを差別っていうんだ」といってました。それに対して「何て無礼な…!」とフンガイする女性客もいたようです。

談志師匠の主張は…車椅子だからといって健常者と同じに扱わないのは、そこに差別や偏見があるからだってことですね。健常者とまったく同じように接するからこそ差別していないといえるということなのでしょう。
わしはこのときの談志師匠の言動について、あとあとまで牛の反芻ように考えたものでした。

実は…立川談志師匠は大の手塚ファンで、手塚マンガ(特に「雨ふり小僧」)を読んで涙したという人です。ズケズケいうので敵をつくってしまうのですが、強いやさしさとでもいうんでしょうか…ほんとうのやさしさを持ち合わせた人ではないかと思っています。もう故人ですが…。

余談ですが、わしは手塚マンガと談志落語の接点というのがピンとこなかったんです。でも、談志師匠の落語を聴いて…手塚マンガに近いものを感じました。そのひとつが悲劇性です。手塚マンガはマンガの中に悲劇性を持ち込んだといわれますが、談志落語にもそれがあったんです。つまり、悲劇性を持つ落語ですね。
それに、手塚マンガでシリアスなストーリーから脱線してヒョウタンツギとかが出てくるように、談志落語も脱線して別の解説が始まったりするんです。「おめぇもブラック・ジャックに治してもらえ」とかって脱線するかと思えば、変幻自在に、まるでジャズのように元に戻ったりする。そこがおもしろかったですね。
そういうセンスは一門の立川志らくにも踏襲されているように感じます。

それにしても、落語の世界では現代では使っていないようなものがいろいろ出てくるわけです。人情のある吉原とか色街も登場する。それらを知らない…認識の違う今の若い人たちに落語として伝えるのは…さぞかし難しかったことでしょう。

それはともかく、森田芳光監督は『の・ようなもの』の次に『家族ゲーム』を発表したのですが、これもまたすばらしかった。
しかし、わしが好きなのはそこまでです。そのあとの作品もずっと追っかけて公開初日に観ていましたが、どれもこれも納得できませんでした。
『ときめきに死す』という沢田研二を主役にした作品もありました。マンガ家の白土三平を教祖役にしたのは意欲的でおもしろかったのですが、映画としては…。
それこそ、『それから』は文芸作品“の・ようなもの”でしたしね。リメイク版『椿三十郎』にいたっては文字通りクロサワの・ようなもの”でした。

という彼ももう、故人ですよねぇ。酒の呑み過ぎかと思ったら、彼は呑まない人だったんですよねぇ。

過去の作品の反映といってしまうとあまりにも失礼かもしれませんが、どんなに意欲作であっても…職人として無難にこなしているなという印象なのです。わしにはデビュー作の『の・ようなもの』と『家族ゲーム』以上ではないと感じましたね。

同じことは大森一樹監督にもいえます。あとあとの作品は『ヒポクラテスたち』以上ではないと思えたのです。
わしは昔の作品のようには好きになれないのです。夢中になれなかったのです。
ファンとしてわしが勝手に、前作以上をという過度の期待をしてしまったということなんでしょうけど、もしも…監督自身が自らの若いときの情熱を越えられないということなら、それはもう仕方のないことなのでしょうか。

「デビュー作にはその作家のすべてがあらわれる」といわれます。だとすれば…そこにすべて出てしまっていたわけで、それからあとの作品は最初の作品のバリエーションとかアレンジ、もしくは残ったものでの再構築ということになり、過去の作品の反映になってしまうというのも当然の結果なのでしょうか…。

大森一樹&森田芳光両監督以外にデビューから観てきた監督といえば、たとえば…スティーブン・スピルバーグがいます。
スピルバーグ監督の作品にしても商業的に大ヒットしたのはあとあとたくさんありますが、デビュー作のチープな『激突』にこそ彼のすべて(本質)があります。
あとあとの大ヒット作ではなく、『激突』がスピルバーグの最高傑作だと評価する人も多くいますよね。

しかし、そんなことをいったらデビュー作以上の作品はできないってことにもなってしまい、いくら何でも…それはゴーマンな話です。
作家によりけりでしょうか。そうかもしれません。きっとそうでしょう。

それとも、わしの感受性がサビてしまった結果であり、あとの作品がすばらしいのにそれに気づかない…爺さんのわし自身の感性こそが過去の反映なのでしょうか。それはあるでしょうね。
過去をバッサリ切り捨てることができれば、観るもの聞くものが新鮮でしょうねぇ(笑)。

2/9は虫先生の命日だったので、だからということでもないのですが…とりとめもなくウダウダと書いてしまいました。虫先生のお嬢さんの「あなたは私の家でした」という新聞の文章、今でも忘れません。

わしが思うことは、過去の作品の反映に陥ることなく、常に前向きのまま一生クリエーティブでいられたら…すごいことだなと思ったわけです。 観る側にしてもね。

いやはや、今回は映画日記にもなっていないかもしれません。そういうときもあります。ご容赦ください。

ヒポクラテスたち&の・ようなものを語るもエ〜ガね 1

「どんな映画が好きなんですか?」といわれることがあります。わしは映画という表現が好きなんです。だから、表現している人も好きです。

「デビュー作にはその作家のすべてがあらわれる」といわれます。どうでしょうか。一概にはいえないかもしれませんが、やはり多くの場合にそれがあてはまるような気がしています。
今回はわしの好きな『ヒポクラテスたち』という古い邦画を題材にそんなことを探求してみたいのですが、話が大きく脱線するかもしれません。

ヒポクラテスとはギリシャの医術哲学者の名前で、映画『ヒポクラテスたち』は1980年公開の…医者のタマゴ=医大生の青春グラフィティです。
京都の医大生といえば、ザ・フォーク・クルセダーズの北山修を思い出しますが、この作品の監督の大森一樹も京都の医大生でした。おそらく、この映画は大森監督の自伝的なことに基づくものなのでしょう。『ヒポクラテスたち』では医学生たちのモラトリアムな日常と苦悩がリアルに描かれています。

主人公の医大生を古尾谷雅人が演じていて、ほかに斉藤洋介、内藤剛志、柄本明、阿藤海、(キャンディーズのメンバーだった)伊藤蘭などが出ていました。

医大の最終学年(6回生)の生徒はグループになっての臨床実習です。まだ、何科の医師を目指すかを決められない者もいます。医学生たちはエラい教授たちのところに相談に行くわけですが、どこに行ってもマンガ「ブラック・ジャック」の単行本が本棚にあったりする。思わず笑ってしまいました。

「ブラック・ジャック」といえば、この映画では手塚治虫先生が小児科の教授役として特別出演しています。(京都が舞台の話でありながら)虫先生のところだけは虫プロがあった東京は練馬区の病院で撮影されたそうです。実は虫先生は演劇経験がある人で、昔のテレビドラマの(オオカミ少年役で水谷豊が主役デビューした)「バンパイヤ」にも出ていました。『ヒポクラテスたち』でもなかなかの役者ぶりでしたよ。ベレー帽なしの貴重な映像だと思います。

当時、その必要もないのに複数の女性から子宮を摘出してしまうという産婦人科がらみのおぞましい事件がありました。記憶では…富士見病院とかいったはずです。『ヒポクラテスたち』にもそのことが取り入れられていましたね。主人公の彼女がその病院で子宮を摘出されてしまい、主人公が泣き崩れるというシーンがそれでした。映画の撮影時にその事件が起こって急遽それを加えたのか、そこが妙に取って付けたような印象でした。もしかすると、デリケートな問題だけに…深く表現できなかったのかもしれませんね。

大森一樹は『暗くなるまで待てない』とか8ミリでの自主映画を撮っていた人で、わしの記憶違いでなければ、この『ヒポクラテスたち』が一般映画のデビュー第1作だったと思う。それだけに、思い入れもタップリなのです。温かい血の通った…わしの大好きな作品ですね。
大森監督はこのあと、『ゴジラ』も含めていろいろな商業作品を撮っていくのですが、やはりわしはこの作品が一番好きです。忘れられません。

忘れられないといえば、後にこの映画の主役を演じた古尾谷雅人が自殺したことはショックでした。彼の死は…人の生死にも関係していた『ヒポクラテスたち』に出たことが少しは影響していたんでしょうか。テレビで「金田一少年の事件簿」の刑事役などでも出ていて…俳優としてもこれからだったんです。ショックでした。

ショックといえば、わしはパソコン上で出会った人とこじれたことがありましたな。
「人間なんてちっぽけなゴミなんだ」という言葉をわしが書いて、相手がそれに憤慨したというものでした。ですが、もしかするとその人は…それが手塚マンガの「火の鳥(鳳凰編)」の我王というキャラの“悟り”のセリフだということを知らなかったのかもしれません。

「立つんだ。ジョー!」といえば「あしたのジョー」だと誰でも知っているように、「人間なんて(宇宙の中で)ちっぽけなゴミなんだ」が、実は言葉とは反対に希望に満ちあふれた超ポジティブな意味だということを(わしらの世代なら)多くの人が知っています。それほど『火の鳥(鳳凰編)』はバイブル的なマンガですからね。
でも、世代が違うと(若い人だから)そういう認識がなかったんでしょう。こっちも、それを知らないはずがないと思い込んでしまっていた。 世代が違えば知らない(読んでいない)のは当然なのに、なぜか通じ合えると思い込んでしまっていたような気がします。

さらに加えるならば、大江健三郎が書いた「死が生の意味を解き明かす唯一のものであるならば、私はできるだけ早く死にたい」という言葉からの引用もあり、 わしとしては逆説的に書いたつもりだったのですが、まるで伝わっていなかったのでしょう。 わしは未熟でした。

爺さんになると、日々ありがたいと思うことが増えますね。それを実感します。「今日も元気でいられてありがとう」とか、人さまとのちょっとした関わりに対しても感謝する日々です。若いときにはあまりなかった感覚ですね。涙もろくもなりました。

若いころは、新宿とかを歩いていると「自分の街みたいな顔してエラそうに歩いてるな」とかいわれたもんでした。でも、爺さんになると、次の時代の若者の邪魔にならないように人生の端っこを歩こうとかって思います。いや、ホントに…。若者を育てたいっていうとそれこそエラそうなんですが、年寄りとして何か若者の役に立てればと考えますね。マジで…。
といいつつ…邪魔をしているだけかもしれません(笑)。

どんな言葉も、すべてを伝えられるものじゃない。
そういえば…時代意識の違いというのか、世代の違いによる認識の違いというのは専門学校で講師をしていたときに生徒から感じたものでした。意味が反対になったりするんですね。たとえば、「ヤバイ」って言葉の意味を否定とするか肯定とするかみたいなことです。 「ヤバくなくない?」とかってなると「ありえねぇ!」ですよ(笑)。
若者たちが「尊敬するゼ」っていい合ってるから尊敬してるのかと思うと、軽蔑の意味を込めて尊敬といってたりするような…。
わしは「ぜんぜんOK」みたいに「ぜんぜん」という言葉を肯定では使いません。打ち消しとして教わったからです。古いヤツですなぁ。でも、今では「ぜんぜんOK」は間違った日本語じゃないんですよね。

笑いと涙、狂気とやさしさが紙一重だったりもする。映画やマンガなどでも、シリアスだと思われていた作品が、次の時代ではコメディ扱いとかってこともあります。反対に、凄惨で目がつぶれそうな汚い映画が…純粋で美しい映画だったとか、人間の本質的な悲哀を描いた魂のカタルシスだった…ってこともあるかもしれません。
そういう微妙なニュアンスの差というのは…時代時代によって受け取り方が違うんだろうと思います。

言葉は生きてるし、合わせて感性も違ってくるんでしょう。難しいですね。でも、そこがまたおもしろく、わしとしては探求したくなるんですけどね。


ところで、通りすがりの方が表記ミスを指摘してくれました。ありがとうございます。
大森一樹監督のデビュー作は『オレンジロード急行(エクスプレス)』でした。
すんません。すんません。加筆してお詫びいたします。


「2」につづきます。長くなりましたので、後半を独立させます。

ニュー・シネマ・パラダイスが愛しくてもエ〜ガね

ゴラムの「いとしいシト」じゃないけど、わしにも“愛しい映画”があります。エンニオ・モリコーネの音楽とともに忘れることのできない、わしにとっての宝物映画…。それが…ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』でした。

http://www.youtube.com/watch?v=vVYW6bRtrBI

子どものころ、お祭りがあると田舎の町に映画がやってきました。わしはそれがたのしみでした。野外にスクリーンを張って観賞するんです。観客でいっぱいになって、スクリーンの裏から観ている人もいました。登場人物が左ききになるんですけどね(笑)。
巡回映画というのもありました。生徒は体育館に座って観るのです。たのしい時間で、映画は特別なものでした。

町に映画館があって…まさにそこは魔法の小屋でした。トイレの窓から映画館に忍び込んで、映画をタダで観たこともあります(ゴメンなさい!)。裏のゴミ捨て場でカットしたフィルムのカケラを見つけて、狂喜したこともありました。
日光写真をワクワクしながらめくっていたのもこの頃で、そういう思い出を呼び起こしてくれたのが…この『ニュー・シネマ・パラダイス』なのです。

主人公のトト少年が大人になった役をジャック・ペランが演じていましたが、彼は実際に映画をつくっている人です(『ミクロコスモス』『WATARIDORI』『オーシャンズ』とかね)。
だから、わしの中ではそれがひとつにつながって…あのトト少年が大きくなって、こんな立派な映画をつくったんだなぁ…なんて思ったものです。そんなふうに想像を広げられることが幸せでした。

あ…でも、好きなのはディレクターズカット版ではありませんよ。わしが好きなのはあくまでも、最初に上映されたバージョンの『ニュー・シネマ・パラダイス』です。

アメリカでは…映画の編集権はプロデューサー(映画会社)が持っているので、監督の思い入れに関係なく…プロデューサーの権限でカット(短く)して上映されます。
だから、監督は公開後に自分で権利を買い取って、自分の思い通りに編集したディレクターズカット版(ロング版)を公開するわけですが、たいていの場合…そっちのデキはよくありません。 監督の思い入れが強すぎるからでしょう。

この『ニュー・シネマ・パラダイス』も例外ではなく、ディレクターズカット版は30分くらい長いのですが、わしにいわせれば…恋愛の後日談を描いたその30分は蛇足でしたね。
客観的視点によるカット(編集)は…やっぱりプロだなって思ったものです。

http://www.youtube.com/watch?v=9RYmWNWmKT4

今回の文章は短い? カットして短くしてみました(笑)。
それにしても、今はスクリーンに向かって叫んでる観客もいなくなったし、映画はもうフィルムの時代じゃないんですよねぇ。

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