パンズ・ラビリンスに酔いしれるもエ〜ガね
『パシフィック・リム』という見事な怪獣映画をつくってくれたギレルモ・デル・トロ監督。PRのため日本に来て「中野ブロードウェイに行きたい」といったデル・トロ監督。そろそろ…彼のこの作品について存分に語るときが来たようです。
「アンタのは長すぎる」と叱られるでしょうけど、書いちゃいます。
http://www.youtube.com/watch?v=Mqg6bD106OU
自分の親は親ではなく、いつか本当の高貴な親が現れる。幼少のころ、誰でも一度はそんなことを夢想したでしょう。童話を読んで夢中になり、その世界に入り込んで現実を忘れてしまう。そんな経験もあるのではないでしょうか。
『パンズ・ラビリンス』の主人公であるオフェリアは…想像することが大好きな少女です。そして、野山を探検して遊んでいた少年時代のわしは…まさにそういうタイプでした。
その昔、今はなくなった恵比寿ガーデンシネマで、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』を観ました。スペイン語の映画です(アカデミー賞3部門受賞、外国語映画賞ほか6部門ノミネート)。みごとな映画でした。わしのような…映画ファンのための映画ですね。
『パンズ・ラビリンス』には、今までに観たファンタジー映画のあらゆるエッセンスが入っていました。『不思議の国のアリス』はいわずもがなですが、『千と千尋の神隠し』を感じることもできました(監督は少年時代に『リボンの騎士』や『未来少年コナン』など日本アニメのファンだったとか)。構成や技法などは『ミラーマスク』にかなり近いと感じたのですが、映画そのものとして最も近いのが『ミチバチのささやき』ではないでしょうか。スペインの内戦終結後…という時代背景も同じです。オフェリア役のイバナ・バケロ(彼女の存在は大きい!)は、『ミチバチのささやき』のアナ・トレントを思い出させてくれました。
音楽も切なく懐かしい響きでしたね。映画を観ながら、はるか昔に聴いた「雲に乗りた〜い♪ 柔らかな雲に〜」という黛ジュンの歌声を思い出していました。どことなくサウンドトラックが似ていたからです。わしは遠い日の自分に誘われるように…甘い気持ちでこの『パンズ・ラビリンス』の世界に入って行ったのです。
衝撃的でした。ファシズムによる…権力者の優位主義的な描写は血なまぐさく凄まじい。『パンズ・ラビリンス』はPG-12指定です。残酷だからです。決して、幼い子向きの安全なファンタジー映画ではありません。
確かに、ファンタジー世界はオドロオドロしいのですが、それらがかわいく思えるくらいに直面している現実がグロいのです。そこにテーマが隠れている。そういう意味では過酷な…大人に託された魂のダーク・ファンタジーです。これからご覧になる方は覚悟したほうがいいでしょう。
ファンタジーは現実からの逃避だとよくいわれます。本当にそうなんでしょうか。そうならば、神を崇拝するのも逃避だってことになってくるかもしれません。神はファンタジーかもしれない。ファシズムだってファンタジーかもしれない。
逆に、神が真実なら、ファンタジー世界だって真実かもしれない。そう考えてもいいはずです。『パンズ・ラビリンス』はそう考えたくなるような映画だったのです。
わしは見る夢がリアルで、ときどき夢のほうが本当の世界ではないかって思うことがあります。それに近い感覚がこの映画にはありましたね。
見えないものを見るジャーナリストのように、わしは考えました。現実の向こう側にファンタジーがあるのか。ファンタジーのこっち側に現実があるのか。ふたつの世界が合わせ鏡だとしたら、どっちがどっちに投射しているのか…。真実はどっちなのか…と。
この『パンズ・ラビリンス』では現実とファンタジー、あるいは地上と地下の二重構造になっています。そのパラレル的な“構成と融合”がとろけるくらいにみごとで、これまでのファンタジー映画の亜流ではないと感じさせます。(CG部分をハリウッドが協力していますが)このテイストの映画はハリウッドではつくれないのではないでしょうか。
というわけで、忘れることができない作品に出会うことができました。これからご覧になる人のためにもストーリーに関して書くことはできません。特にラストの解釈について書くことはできません(観た者同志でそっと語り合いましょう)。胸が締めつけられ、わしは映画が終わって…しばし、放心状態でした。
でも…そもそも、映画という表現そのものがファンタジーなんですよね。
わしは少年時代に行って、宝箱に珠玉の思い出を詰めて帰ってきた気分でした。
巨木の根の洞窟内にある試練に立ち向かったときのオフェリアの凛々しい表情など、今後、野山を歩くたびに…そこに彼女を見つけて…思い出すに違いありません。
ちなみに、タイトルの“パン”とはギリシャ神話に出てくるヤギのような神=牧神のことで、“パニック”の語源にもなっていますね。パンは…日本でいえば産土(うぶすな)の神のようなものかもしれません。
ギレルモ・デル・トロ監督の前の作品に『デビルス・バックボーン』というのがあり、『パンズ・ラビリンス』に共通しますね。この作品に関しては別に書くことにしましょう。
ところで、スペインとメキシコの合作であるこの映画にはプロデューサーとして『トゥモローワールド』のアルフォンソ・キュアロン監督が入っていました。きっと、高畑勳と宮崎駿みたいな関係なんでしょうね。実際、ギレルモ・デル・トロとアルフォンソ・キュアロンとアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの3人は“スリー・アミーゴス”と呼ばれているようですね(笑)。このあたりはもっと探求してみようと思っています。
以下、映画の内容を掘り下げて二重構造で書きます。ご覧になっていない方はご注意ください!
オフェリアが母親に「なぜ、ビダル大尉と結婚したのか」と問う場面がありました。男に頼らなければ生きられない弱い母に疑問を持っているようでした。母の再婚に納得できないオフェリアは、どこかで…母からの自立を考えているようにも思えました。でも、少女に何ができるでしょう。
知らない義父の土地に連れてこられて、オフェリアはまさに五里霧中。おそらく、彼女は窮地に立たされ…自分の道を模索していたのでしょう。
そして、現実をつくるのは幻想だとばかりに、オフェリアの内なる願望が形となり、それが彼女自身に試練を与える。『パンズ・ラビリンス』はそういう映画ではないでしょうか。
オフェリアと母カルメンがビダル大尉の館に到着したときに発する大尉の挨拶言葉。言葉がわかればもっと深く理解できるのにと悔しい気持ちにもなるのですが、あれは男性を含む複数に対してのスペイン語だそうです。でも、そこには男性はいない。つまり、ビダル大尉はカルメンのお腹の中の子どもを男と決めつけているんですね。これは男子優位のファシズムにつながる幻想でしょう。つまり、ここにもファンタジーがあるわけです。
オフェリアが大尉と握手するとき、彼女は「本のほうが大事」といわんばかりに右手をおとぎ話の本から離さない。
幻想と現実の物語ですが、オフェリアのファンタジーとビダル大尉のファンタジー、そのふたつの意志を対比させるのが『パンズ・ラビリンス』だともいえるのかもしれません。
この映画では柱の影とか…黒の部分を使って次の場面に切り替えることが多く、それが特徴ですが、物事は闇でつながっているという意味もあるのでしょうか。いや、これは単に深読みでしょうね。
それとは違うのですが、この映画は絵画的影響も強いように思います。
ビダル大尉の館の奥の迷宮に入り込んだオフェリアは、牧神=パンから彼女自身の出生に関する秘密を打ち明けられ、三つの試練を与えられる。しかし、ファンタジー界の牧神はオフェリア自身の内なるイメージでもあろうことを考えると、それはオフェリア自身が決めた価値基準でもあるとわしは思うわけです。
牧神の“パン”というものの性質を考えると、もともとその土地にそれが実在し、そこにオフェリアがやって来たと考えるべきなのでしょう。それが正しい解釈かもしれませんが、わしは素直にそうは思えなかったのです。
確かに、並行世界として、そこに幻想世界がぽっかりと口をあけて待っていたというふうに見えなくもありません。チョークというのはかつては魔術的な道具だったらしく、そのチョークを使ってファンタジー世界に行くことができる。そう考えられなくもありません。でも、やっぱり、オフェリアの想像世界ではないでしょうか。
オフェリアが母親のお腹の中の赤ん坊をイメージしていましたが、その想像の中にナナフシがいました。彼女にとって、不思議な昆虫のナナフシは現実と想像世界をつなぐ存在なのかもしれません。
ともかく、ナナフシを妖精に見立てることができるくらい想像力の逞しい少女です。心の中に実像をつくるくらいはできそうです。想像するものは誰のものでもない。彼女自身のものです。それは実際に存在するということと同じでしょう。
牧神=パンに会うときにオフェリアが螺旋階段を下りていましたが、こういう上下感は天国と地獄などキリスト教的なものなのでしょうか。定番といいますか、『ふしぎの国のアリス』でも地下に落ちるわけですが、日本のファンタジーではあまりこういう上下感はないように思います。
試練に挑むために、親から与えられたアリスのような少女服を脱ぐシーンがありました。服を脱ぐのはそれが汚れるからかと思ったのですが、親から与えられるものへの拒否という気持ちもあったのでしょう。ビクトリア朝時代の中流社会では子どもを愛玩の対象として服装にもお金をかけるという風潮があったそうです。そういうことへの反発もあったのでしょうね。そこが自立と通過儀礼的でもあるのでしょう。
映画はラストのシーンから始まります。オフェリアの顔のアップから始まり、時間が逆に流れて本に書かれた地下王国の説明から…車中でその本を見る彼女の世界(回想)へと入ってゆき、最後に最初のシーンにつながります。ということは…もしかすると、すべてが想像かもしれないとさえ思いました。
そんなわけで…現実と幻想が交差する物語なのですが、その混ざり具合に無理がなく…すばらしい。どうしてこんなに見事なんでしょう。陶酔するほどです。
ハッピーエンドかバッドエンドかで解釈が分かれるでしょうが、わしは…前者だとハッキリ捉えることができました。そう思わなければならないのです。
余談ですが、マンガ家の田河水泡は「いい人生だった…」とつぶやいて亡くなったそうです。人は最後の最後まで自分の意志でユメを見ることができる。勝ち組とか負け組っていいますが、それは自分が自分をどう評価するかということではないでしょうか。わしはそう思います。自分の内面とどう対峙するかですよね。
幻想からも現実からも追い込まれ、過酷な状況下でもこんなふうに自分を信じることができたオフェリア…。彼女の自己肯定の精神はいじらしく、すばらしい。涙があふれますよ。
ダークで…美しく切なく、心臓に痛い感動の映画でした。
今後、野山を歩くたびに…そこに彼女を見つけて…思い出すに違いありません。
http://www.youtube.com/watch?v=eaaStXvn0LY
http://www.youtube.com/watch?v=E7iJFu2v9x0&list=PLhD1C1nLTy-GV8dmnJWQBULX7g77gQfyq
フランコ将軍の圧政に抵抗する映画でもあるわけですが、赤ん坊は…その後、数10年つづく紛争への“希望”として描かれているんでしょうね。
「アンタのは長すぎる」と叱られるでしょうけど、書いちゃいます。
http://www.youtube.com/watch?v=Mqg6bD106OU
自分の親は親ではなく、いつか本当の高貴な親が現れる。幼少のころ、誰でも一度はそんなことを夢想したでしょう。童話を読んで夢中になり、その世界に入り込んで現実を忘れてしまう。そんな経験もあるのではないでしょうか。
『パンズ・ラビリンス』の主人公であるオフェリアは…想像することが大好きな少女です。そして、野山を探検して遊んでいた少年時代のわしは…まさにそういうタイプでした。
その昔、今はなくなった恵比寿ガーデンシネマで、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』を観ました。スペイン語の映画です(アカデミー賞3部門受賞、外国語映画賞ほか6部門ノミネート)。みごとな映画でした。わしのような…映画ファンのための映画ですね。
『パンズ・ラビリンス』には、今までに観たファンタジー映画のあらゆるエッセンスが入っていました。『不思議の国のアリス』はいわずもがなですが、『千と千尋の神隠し』を感じることもできました(監督は少年時代に『リボンの騎士』や『未来少年コナン』など日本アニメのファンだったとか)。構成や技法などは『ミラーマスク』にかなり近いと感じたのですが、映画そのものとして最も近いのが『ミチバチのささやき』ではないでしょうか。スペインの内戦終結後…という時代背景も同じです。オフェリア役のイバナ・バケロ(彼女の存在は大きい!)は、『ミチバチのささやき』のアナ・トレントを思い出させてくれました。
音楽も切なく懐かしい響きでしたね。映画を観ながら、はるか昔に聴いた「雲に乗りた〜い♪ 柔らかな雲に〜」という黛ジュンの歌声を思い出していました。どことなくサウンドトラックが似ていたからです。わしは遠い日の自分に誘われるように…甘い気持ちでこの『パンズ・ラビリンス』の世界に入って行ったのです。
衝撃的でした。ファシズムによる…権力者の優位主義的な描写は血なまぐさく凄まじい。『パンズ・ラビリンス』はPG-12指定です。残酷だからです。決して、幼い子向きの安全なファンタジー映画ではありません。
確かに、ファンタジー世界はオドロオドロしいのですが、それらがかわいく思えるくらいに直面している現実がグロいのです。そこにテーマが隠れている。そういう意味では過酷な…大人に託された魂のダーク・ファンタジーです。これからご覧になる方は覚悟したほうがいいでしょう。
ファンタジーは現実からの逃避だとよくいわれます。本当にそうなんでしょうか。そうならば、神を崇拝するのも逃避だってことになってくるかもしれません。神はファンタジーかもしれない。ファシズムだってファンタジーかもしれない。
逆に、神が真実なら、ファンタジー世界だって真実かもしれない。そう考えてもいいはずです。『パンズ・ラビリンス』はそう考えたくなるような映画だったのです。
わしは見る夢がリアルで、ときどき夢のほうが本当の世界ではないかって思うことがあります。それに近い感覚がこの映画にはありましたね。
見えないものを見るジャーナリストのように、わしは考えました。現実の向こう側にファンタジーがあるのか。ファンタジーのこっち側に現実があるのか。ふたつの世界が合わせ鏡だとしたら、どっちがどっちに投射しているのか…。真実はどっちなのか…と。
この『パンズ・ラビリンス』では現実とファンタジー、あるいは地上と地下の二重構造になっています。そのパラレル的な“構成と融合”がとろけるくらいにみごとで、これまでのファンタジー映画の亜流ではないと感じさせます。(CG部分をハリウッドが協力していますが)このテイストの映画はハリウッドではつくれないのではないでしょうか。
というわけで、忘れることができない作品に出会うことができました。これからご覧になる人のためにもストーリーに関して書くことはできません。特にラストの解釈について書くことはできません(観た者同志でそっと語り合いましょう)。胸が締めつけられ、わしは映画が終わって…しばし、放心状態でした。
でも…そもそも、映画という表現そのものがファンタジーなんですよね。
わしは少年時代に行って、宝箱に珠玉の思い出を詰めて帰ってきた気分でした。
巨木の根の洞窟内にある試練に立ち向かったときのオフェリアの凛々しい表情など、今後、野山を歩くたびに…そこに彼女を見つけて…思い出すに違いありません。
ちなみに、タイトルの“パン”とはギリシャ神話に出てくるヤギのような神=牧神のことで、“パニック”の語源にもなっていますね。パンは…日本でいえば産土(うぶすな)の神のようなものかもしれません。
ギレルモ・デル・トロ監督の前の作品に『デビルス・バックボーン』というのがあり、『パンズ・ラビリンス』に共通しますね。この作品に関しては別に書くことにしましょう。
ところで、スペインとメキシコの合作であるこの映画にはプロデューサーとして『トゥモローワールド』のアルフォンソ・キュアロン監督が入っていました。きっと、高畑勳と宮崎駿みたいな関係なんでしょうね。実際、ギレルモ・デル・トロとアルフォンソ・キュアロンとアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの3人は“スリー・アミーゴス”と呼ばれているようですね(笑)。このあたりはもっと探求してみようと思っています。
以下、映画の内容を掘り下げて二重構造で書きます。ご覧になっていない方はご注意ください!
オフェリアが母親に「なぜ、ビダル大尉と結婚したのか」と問う場面がありました。男に頼らなければ生きられない弱い母に疑問を持っているようでした。母の再婚に納得できないオフェリアは、どこかで…母からの自立を考えているようにも思えました。でも、少女に何ができるでしょう。
知らない義父の土地に連れてこられて、オフェリアはまさに五里霧中。おそらく、彼女は窮地に立たされ…自分の道を模索していたのでしょう。
そして、現実をつくるのは幻想だとばかりに、オフェリアの内なる願望が形となり、それが彼女自身に試練を与える。『パンズ・ラビリンス』はそういう映画ではないでしょうか。
オフェリアと母カルメンがビダル大尉の館に到着したときに発する大尉の挨拶言葉。言葉がわかればもっと深く理解できるのにと悔しい気持ちにもなるのですが、あれは男性を含む複数に対してのスペイン語だそうです。でも、そこには男性はいない。つまり、ビダル大尉はカルメンのお腹の中の子どもを男と決めつけているんですね。これは男子優位のファシズムにつながる幻想でしょう。つまり、ここにもファンタジーがあるわけです。
オフェリアが大尉と握手するとき、彼女は「本のほうが大事」といわんばかりに右手をおとぎ話の本から離さない。
幻想と現実の物語ですが、オフェリアのファンタジーとビダル大尉のファンタジー、そのふたつの意志を対比させるのが『パンズ・ラビリンス』だともいえるのかもしれません。
この映画では柱の影とか…黒の部分を使って次の場面に切り替えることが多く、それが特徴ですが、物事は闇でつながっているという意味もあるのでしょうか。いや、これは単に深読みでしょうね。
それとは違うのですが、この映画は絵画的影響も強いように思います。
ビダル大尉の館の奥の迷宮に入り込んだオフェリアは、牧神=パンから彼女自身の出生に関する秘密を打ち明けられ、三つの試練を与えられる。しかし、ファンタジー界の牧神はオフェリア自身の内なるイメージでもあろうことを考えると、それはオフェリア自身が決めた価値基準でもあるとわしは思うわけです。
牧神の“パン”というものの性質を考えると、もともとその土地にそれが実在し、そこにオフェリアがやって来たと考えるべきなのでしょう。それが正しい解釈かもしれませんが、わしは素直にそうは思えなかったのです。
確かに、並行世界として、そこに幻想世界がぽっかりと口をあけて待っていたというふうに見えなくもありません。チョークというのはかつては魔術的な道具だったらしく、そのチョークを使ってファンタジー世界に行くことができる。そう考えられなくもありません。でも、やっぱり、オフェリアの想像世界ではないでしょうか。
オフェリアが母親のお腹の中の赤ん坊をイメージしていましたが、その想像の中にナナフシがいました。彼女にとって、不思議な昆虫のナナフシは現実と想像世界をつなぐ存在なのかもしれません。
ともかく、ナナフシを妖精に見立てることができるくらい想像力の逞しい少女です。心の中に実像をつくるくらいはできそうです。想像するものは誰のものでもない。彼女自身のものです。それは実際に存在するということと同じでしょう。
牧神=パンに会うときにオフェリアが螺旋階段を下りていましたが、こういう上下感は天国と地獄などキリスト教的なものなのでしょうか。定番といいますか、『ふしぎの国のアリス』でも地下に落ちるわけですが、日本のファンタジーではあまりこういう上下感はないように思います。
試練に挑むために、親から与えられたアリスのような少女服を脱ぐシーンがありました。服を脱ぐのはそれが汚れるからかと思ったのですが、親から与えられるものへの拒否という気持ちもあったのでしょう。ビクトリア朝時代の中流社会では子どもを愛玩の対象として服装にもお金をかけるという風潮があったそうです。そういうことへの反発もあったのでしょうね。そこが自立と通過儀礼的でもあるのでしょう。
映画はラストのシーンから始まります。オフェリアの顔のアップから始まり、時間が逆に流れて本に書かれた地下王国の説明から…車中でその本を見る彼女の世界(回想)へと入ってゆき、最後に最初のシーンにつながります。ということは…もしかすると、すべてが想像かもしれないとさえ思いました。
そんなわけで…現実と幻想が交差する物語なのですが、その混ざり具合に無理がなく…すばらしい。どうしてこんなに見事なんでしょう。陶酔するほどです。
ハッピーエンドかバッドエンドかで解釈が分かれるでしょうが、わしは…前者だとハッキリ捉えることができました。そう思わなければならないのです。
余談ですが、マンガ家の田河水泡は「いい人生だった…」とつぶやいて亡くなったそうです。人は最後の最後まで自分の意志でユメを見ることができる。勝ち組とか負け組っていいますが、それは自分が自分をどう評価するかということではないでしょうか。わしはそう思います。自分の内面とどう対峙するかですよね。
幻想からも現実からも追い込まれ、過酷な状況下でもこんなふうに自分を信じることができたオフェリア…。彼女の自己肯定の精神はいじらしく、すばらしい。涙があふれますよ。
ダークで…美しく切なく、心臓に痛い感動の映画でした。
今後、野山を歩くたびに…そこに彼女を見つけて…思い出すに違いありません。
http://www.youtube.com/watch?v=eaaStXvn0LY
http://www.youtube.com/watch?v=E7iJFu2v9x0&list=PLhD1C1nLTy-GV8dmnJWQBULX7g77gQfyq
フランコ将軍の圧政に抵抗する映画でもあるわけですが、赤ん坊は…その後、数10年つづく紛争への“希望”として描かれているんでしょうね。