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三度目の殺人を考えるもエ~ガね

是枝裕和監督の『三度目の殺人』を観た。
ビジネスライクにこなす弁護士に福山雅治。一筋縄ではいかない殺人犯に役所広司。その存在感はさすがだと思った。そして、被害者の娘に広瀬すず。重要な役だ。

ガラス越しに弁護士と殺人犯が対峙する。映画の中で真実は明かされていない。観る側がそれを考える…というつくり方だ。

https://youtu.be/znX_FGhGBBo

人が人を裁くとはどういうことか。いつまでも心の奥底に残り…考えさせられる怖い映画だった。

ふと、加賀乙彦の「死刑囚の記録」を思い出し…本棚から取り出しページをめくった。
「この憎悪が、彼の精神生活を何とか安定させている原動力」「拘置所は未決の被告を、刑務所は既決の受刑者を拘禁する場所」と…そんな言葉が次々と目に飛び込んできた。

昔読んだ本なのでしっかりとは覚えていない。死刑囚を取材して書かれたもので、死刑というのは合法的な殺人ではないか…というスタンスだったように記憶する。

『三度目の殺人』に原作はない。是枝監督のオリジナルなので、おそらく…この「死刑囚の記録」も参考資料になっているだろう。

タイトルの意味を含めて、わしなりに真実…というか答えは見つけたが、マナーに反するのでそれは書けない。問題を提起している。観る人によっては消化不良を起こすだろうな。
『三度目の殺人』はそういう意欲作だった。

裁くのか、裁かれるのか。
闇なのか、光なのか。
真実より大切な…。



さぁ、今日は内藤トウガラシの実を収穫する。真っ赤な実を採って吊るすのだ。

砂の器で作曲してもエ〜ガね

サムラ・カワチノカミと読むのかと思っていました。例の音楽プロデューサーのことです。サムラゴーチまでが苗字だったんですね。

そして、今回の騒動で思い出したのが『砂の器』なのです。原作/松本清張、脚本/橋本忍&山田洋次。監督/野村芳太郎による1974年の作品ですね。
原作の部分を膨らませて、見事な映画にしていました。

http://www.youtube.com/watch?v=xEcAEB5s4lM

迷宮入りしそうな殺人事件を…ベテラン今西と若い吉村というふたりの刑事が追う。被害者が残した東北弁らしき言葉。捜査線上に浮かんでくる天才音楽家…。『砂の器』は必見もののサスペンス映画です。
特筆に値する音楽の扱い方でしたね。そこにかぶさる映像もすばらしかった。後半は映像と音楽だけなのです。この手法は『2001年宇宙の旅』にも通じるものでした。

『砂の器』の主人公は音楽家=ピアニスト(演ずるは加藤剛)で、確か名前は和賀英良といいました。彼は自身の音楽の中で…生きている。思い出の中の風景はどこまでも美しく、そこには父親がいる。その昔、わしは泣きながら観ましたよ。今観ても泣いてしまうでしょう。

自然風景を眺めながら…なぜか、“廃仏毀釈”という明治維新の仏教破壊運動を思い出したりもしました。
明治の新政府が神仏分離によって神道を拠り所にしたことで、脱亜入欧の考えを持つ日本人は仏を捨ててしまったのだという。もしかするとそれは、日本人が日本の心を捨てるという行為だったのかもしれない。
神道はもちろん、仏だって日本人の心の礎なのだ。心の文化なのだ。それによって日本ができていったのではないか。

いやいや、わしが思い出したのはそういうことではありません。
『砂の器』の和賀英良の子どものときの本当の名前は確か…秀夫というのですが、彼には音楽的素養というものがなかった。家には当然、ピアノなんてない。ところが、彼は大きくなってピアニストになり作曲をしている。
彼を追求する今西刑事(演説演技の上手な丹波哲郎)は調査報告の席で「京都の烏丸教授に音楽の天分を見出されて…」とかって軽くいう。
わしはずっと疑問に思っていたのです。そんなことがあり得るだろうかって…。
もっとも、原作小説ではピアノではなく、シンセサイザーなんですけどね。


サムラ・カワチノカミの件ですが、このことを思い出したのです。
『砂の器』と同じく、彼の家にはピアノがなかったらしい。それなのに、絶対音感を頼りに譜面を書くなんてあり得るだろうかって思っていたのです。
彼が…ゴーストライターと呼ばれる実際に作曲する人に渡した「設計図」、わしはそれに興味を持ちました。音楽を絵で表現することは不可能だと思うのですが、図で(見事に?!?)イメージされていたからです。
それにしても、ゴーストライターを訴えるというのは妙な話ですね。
彼はあくまでも芸術家でありたくて、だからこそそれを演出したんでしょう。音楽プロデューサーとしてなら後世に名を残せたでしょうにねぇ。

天国と地獄の間に流れる川もエ〜ガね

東京には神田川という東西を流れる長い川があります。かぐや姫のフォークソングにもなった…あの神田川です。正しくは江戸時代の水道=神田上水で、人口の川ですね。
神田川の源は井の頭公園の池の湧き水にあります。今は“かいぼり”といって、池は28年ぶりに水のない状態になってますけどね(もう終わったかな)。

神田川の始点は井の頭池。そして終点は隅田川との合流地点です。
わしは神田川の始点から下り、江戸文化を研究している友人は終点から遡り…果たしてどこで出会うか、双方から出発して歩いてみよう。という壮大な計画を立てました。
川沿い大散歩です。今日、3/1に決行します。無事に会えたら酒盛りです(笑)。



ここはウダウダと映画を語る場なので、黒澤明監督の『天国と地獄』のことを書きましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=IG2IEOMS_J4

『天国と地獄』は1963(昭和38)年の作品で、この映画をマネして実際に誘拐が起こったことは有名ですよね。悲しい事件でした。吉展ちゃん誘拐事件といいます。

わしは黒澤映画の大ファンです。全30作くらいありますが、そのうち10作くらいはアカデミー賞の作品賞を取ってもいいレベルだと思います。そんな監督は世界的にもあまりいないでしょうね。

この『天国と地獄』もサスペンスとしておもしろく、よくできた映画。音楽の入れ方(子どもとの再会まで音楽がまったく入らない)や実験的な映像(秘密!)、調査先の個々のエピソードやドラマチックなエンディングなど…好きです。
たとえば、前半は舞台劇のように室内のシーンだけなのです。それこそ、最近の山田洋次監督の『小さいおうち』のようにです。ところが、後半はガラッと変わって野外描写になります。

これまではおもしろいと感心していたのですが、10年前に何度目かの観賞をしたとき、僅かな疑問を持ちました。内面の深みに欠けるのではと感じたのです。
犯人を追いつめる刑事側(仲代達矢)の執念の表現は『野良犬』のように見事なのですが、犯人の内面表現がほとんどないのです。
もちろん、あえてそうしてるんでしょうけどね。

たとえば、犯人は医学生なのですが…インターンまでやっているならそれほど地獄でもないじゃないか。むしろ、エリートでは…。それなのに、なぜ彼は憎悪が生きがいになるほど屈折したんだろう。そういうことはまったくわからない…。
また…たとえば、麻薬街の人々のほうがよほど地獄じゃないか。たたき上げの権藤(三船敏郎)の若いときにしたって、もしかしたら…地獄のようなこともあったかもしれない。
もしも、脚本に橋本忍が参画していれば(なぜいない?)そのあたりをもっと掘り下げたのではないか。そんなことも思ったのでした。

『天国と地獄』はハリウッド映画のようにわかりやすくておもしろいけれど、映画の骨格としては紋切り型というか…少し荒削りではないかってことを感じたわけです。
もちろん、それもあえてなんでしょうけどね。 もしかすると、アメリカ進出を考えてのことだったのかもしれません。
黒澤映画のことは今後たくさん書くでしょうから、今日はこれくらいにしておきましょう。

さて、どうして今回、この映画のことを書いたのか 。
それは犯人(若き日の山崎努)が登場するシーンに川が使われていたからなんです。特急電車での身代金の受け渡しや煙の描写とともに、そのシーンが印象に残っています。どこの川だったんだろう。神田川ではなく、他の川だったんでしょうけどね。



川沿い大散歩ですが、雨天のため2時間くらい歩いて…酒盛りに切り替えました。
いつかリベンジしたいと思います。興味のある方は声をかけてください。
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