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土を喰らう十二カ月がエ~ガね

水上勉の原作だし、地味な話かと敬遠してた。DVDで『土を喰らう十二カ月』を観たのだ。主演は沢田研二。

原作を読んでいるのだが、高級な精進料理のクッキングブックみたいだ。いわば、エッセイだね。

月ごとの章だったのを、映画では「二十四節季」に分けている。それがいいね。

映画では松たか子扮する編集者が出てくる。もうひとつ原作があるのだろうか。原案だから、監督が脚色したのかもしれない。

監督は中江裕司。料理研究家の土井善晴が料理画面を担当している。実に見事。

水上勉は少年時代、禅寺で修行した人だ。そこで精進料理の心得を学んだのだという。

わしは山奥で生まれ育った。ワラビやセリやタケノコやユリの根とかを食べてた。そういうのがいっぱい出てくる。それがうれしかった。

自然な佇まい。撮影に1年以上をかけてる。ほどよくまとまった映画だった。沢田研二も老けたが、ほどよく老けてたな。

大地への愛。その大地が育む食材。
愛する人と食べるご飯が一番うまいのだ。

https://youtu.be/f5el63UWTM8


山歌を考えるもエ~ガね

子どもの頃、「ニッポン・インディアンいたよぉ」みたいな枕詞のラジオドラマがあった。どこからの着想? 刺激されて、わしは日本の古代民族に興味を持つようになった。

だから当然、サンカ民族を知ったのだ。サンカは山窩だが、パソコンでも出てこない。もっとも柳田国男が命名したものらしい。サンカ本人たちがそう名乗ったわけではない。アイヌ民族と同じように、彼らは文字を持たなかったのかもしれない。

三角寛の著作も影響してるだろうな。そうか。中島貞夫監督もサンカ映画をつくってたんだな。

サンカ民族は昭和の初期あたりまで存在したのだ。家も財産も戸籍すらも持たない流浪の山間民族として、自然と共生してきたのだ。


『山歌』という映画を観た。笹谷遼平という人の脚本・監督だ。
1965年、最後のサンカと思われる家族が生きている…と思われるところから映画は始まる。

真摯に作られていたが、現存しない民族を今の役者が演じるのだ。そこに違和感も持った。
俳優陣が魅力的だ。小向なるがいい。興味を持った人は『山歌』を観てほしい。でも、題材としてリアルな自然は難しいね。
出雲族とサンカのつながりは? わしは50年もサンカのことを考えてきた。わしの疑問にも応えてほしかったな。

ずっと昔から…自然を愛する彼らは自然の中で生きてきたんだろう。時には街で生きられなくなった咎人を受け入れただろう。そんな中で危険な問題も起こっただろうな。そうして日本ができていったんだ。“裏”の日本の姿かもしれないけどね。

西洋では自然は挑む対象だ。でも、日本では還る場所と捉える。
“死”は人間が自然に還れる瞬間かもしれない。崇高な遺伝子がわしらの中で生きてるような気がする。

https://youtu.be/JshN_5w31cQ

青幻記 遠い日の母は美しくてもエ〜ガね

夏が通り過ぎた。夏休みの終盤をたのしみにしていた子どもたちがかわいそう。
でも、友人のNさん家族は沖縄に行ったという。Sちゃんには忘れられない夏の思い出ができたことだろう。

忘れられない映画に『青幻記』がある。成島東一郎の監督作品で、確か…一色次郎の原作。「遠い日の母は美しく」がサブタイトルだった。音楽はわしの大好きな武満徹だったと思う。
とはいっても、わしは断片的にしかこの映画を覚えていない。

美しい海辺のシーンが思い浮かぶ。
「ぼく、ここへ来たことある?」「いいえ、ありません」という母と子の会話があったような気がする。母親は着物姿で、少年は学生服で小学校低学年くらい。田村高広扮する主人公が…確か奄美の沖永良部島に行って、亡き母を回想する。“洗骨儀礼”もあったと思う。そんな映画だった。

美しい海辺でのシーンが忘れられない。
のどかな引き潮の海で、母と少年が貝を採ったりしている。母親が体調を崩す。ケガだったのか動けなくなる。潮が満ちてくる。
「あの岸まで走りなさい。辿り着くまで決して振り向いてはなりません」という母の言葉に少年は走る。
そして振り返ると…もう、母親の姿はない。そこにはただ広い海があるだけ…。


わしも母親のことを思い出す。
わしがまだ小学校に行く前、隣町へ豆腐を買いに行ったことがある。初めてのおつかいだ。
その豆腐屋までは細い山道。家も少ない。買うといっても、豆を持って豆腐と交換してもらう、物々交換だった。
豆腐屋の作業がめずらしく、わしは好奇心でじっと見ていた。いつしか夕日が山に沈みかけていた。
豆腐屋は豆腐といっしょに「駄賃だ」とスルメみたいなヘンな物を渡してくれた。
山道は木々の影になり、わしは暗くなりかけた道を我が家へ急いだ。
帰り道、スルメみたいな物をかじってみたら甘かった。
山道の前方の曲がり角…まだ残っている光の中に、母親が立っていた。
その姿は今でもわしの瞼に焼き付いて消えることはない。まさに、遠い日の母は美しく…。
母は心配して迎えに来てくれたのだった。わしはスルメみたいな甘い物を見せた。それは“干し芋”だったのだ。


それにしても、『青幻記』の“青”は海の色だと思うが…それだけの意味だろうか。
もしかすると…魂の色だったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=DfGDda_vxNw


劔岳 点の記における表現の詐術もエ〜ガね!

居場所を問う家族の物語…。夏山シーズンを前に木村大作監督の『春を背負って』が公開されたはずですが、どうだったんでしょう。原作の奥秩父から…山小屋の舞台を立山連峰に換えての撮影だったようですが、映画の評判が聞こえてきませんねぇ。

というわけで、今回はこの監督の最初の…5年前の『劔岳 点の記』について書いてみましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=cCcktTfIY68
http://www.youtube.com/watch?v=71WnPacBhEs
http://www.youtube.com/watch?v=7Wt_IqgZLwQ

点とは三角点。つまり、劔岳測量観測の記録ですよね。
撮影に2年かかったんですね。でも、2年だけ? この映画のことはもっとずっと前から聞いていたような気がします。もしかすると、『劔岳 点の記』の制作は一度…頓挫してるのではないでしょうか。

立山は古くから山岳信仰の場所で、その奥の“劔”は霊峰と呼ばれていた山。わしは劔岳(剣岳2999M)に一度しか登頂したことはありませんが、急峻な岩峰でした。独立峰に近いので、あの山での撮影はさぞかし…たいへんだったでしょう。
簡単に行けない場所だからこそ、山は美しい。厳しいからこそ、人生はすばらしい…なんてね。
リアリティにこだわり、『劔岳〜』は自然美と日本人の心を映し出す映画になっているに違いない。そう思って観たものでした。


よくリアリティのある映画といわれますが、それはリアルとは違いますよね。
木村大作監督は黒澤明監督のもとでカメラマン助手を務めたわけですが、その黒澤映画にしても映画のウソはいっぱいあります。リアリティを追求する中にウソを紛れ込ませている。たとえば『用心棒』で、三十郎が拳銃を持つ卯之助を包丁でやつけるところなどです。三十郎の強さを見せつけて、彼なら包丁一本でできるという気にさせる。観客は疑うことなくその気になってしまう。それは映画上のテクニック。ウソこそが映画の最大の魅力だといっても過言じゃない。わしはそう信じています。どうでしょうか。

例をあげればキリがありません。たとえば、ティムール・ベクマンベトフ監督の『ウォンテッド』という映画。あり得ないウソがたくさん出てきます。でも、あり得るかも…って思わせてくれる。「あり得ねぇ!」ではなく「あり得るかも…!」って思えるのは紙一重ですが、いったい何の差なんでしょうか。もちろん、俳優の演技もありますよね。

あるいは、マンガのウソ。ウソがあるからこそのマンガではないでしょうか。
たとえば手塚マンガです。2コマで1000年くらい時が流れたりする。ところが、その2コマで主人公はひとつのセリフをいってたりするのです。実際はあり得ない。でも、何の違和感もなくスンナリと読めて…感動するのです。これにしても表現上のウソ。コマ割りのトリック。手塚ワールド。詐術という名の表現テクニックでしょう。

映画やマンガや演劇、あるいは小説。それぞれによって表現の詐術は違うでしょう。マンガならばできるけれど、映画でそれをやるとお笑いになるとか…その反対とか。『ウォンテッド』の時間の逆行表現なんて…マンガでは不可能ですもんね。
時代による感じ取り方の違いもあるでしょうが、逆にそれこそエーゼンシュタインの時代から変わらないものもあるでしょう。そういうことを研究して行きたいものです。

ナゾをナゾのまま説明せずに放り出しても疑問に思わない映画と、それなりに説明しているのに納得いかず疑問に思う映画があります。その映画のテイストや表現の詐術の問題でしょうけど、一筋縄ではいかない…こういうことを探求するのもおもしろいかもしれませんね。


浅野忠信や香川照之など俳優陣が語っていますが、『劔岳 点の記』では片道9時間も歩いて撮影場所に行き、そこで僅か1〜2カットの撮影をして帰ってくるということもあったようです。おそらく、そういう撮影の積み重ねの2年間だったのでしょう。

わしの友人が山岳カメラマンで劔岳を撮影しています。彼にしても、一瞬のシャッターチャンスのために何時間でも岩場で待ってますもんね。フィルターとかの使用を嫌い、自然光だけで撮っています。“山屋”にはそういう一途でガンコなタイプが多いですね(笑)。

木村監督の「本物のロケ地に本物の俳優を置いただけ」という発言がありましたが、それは「俳優には当時(明治時代)と同じ苦労をしてもらった」という意味でしょう。
ドキュメンタリーに近いのかもしれませんね。新田次郎の原作からして、実際にあった話がもとですしね。でも、そういう映画こそ詐術が効くと思う。ドキュメンタリーぽく見せる詐術もあるでしょうからね。映画であれば、きっとそれが隠されているはずだと思うのです。

きっと、「苦しみがあるからこそ、人生はたのしい」「困難の先にあるもののために歩む」みたいな映画なのでしょう。山岳映画という名の…寡黙な男たちの生き方を伝える映画に違いない。それを考えると、希望が見えるような気持ちになってきます。わしの人生も冬山登山なみに厳しいけれど、泣きながら夢を見ましょうか。

などとウダウダいいながら観たものでした。
ど〜でもエ〜ガですが、されどエ〜ガでもあるって感じ。
こんなふうにゴタクを並べないと映画をたのしめないわしなのです(笑)。


観て、まず…驚いたのが[新宿バルト9]の一番大きな9シアターがほぼ満席だったこと。上映館数も少なく、公開初日の…舞台挨拶の次の回ってこともあるでしょうけど、地味でアナログな山岳映画があそこまで客でいっぱいとは思わなかった。大ヒット…ってことだったんでしょうねぇ。
もっとも、だからこそ次の『春を背負って』を撮ることができたんでしょうからね。

さらに驚いたのが、映画としてよかったってこと。思っていたよりずっとよかったですね。
当時の地元住民との軋轢のことは原作に比べて薄めてありましたが、それはやむを得ないところでしょう。
「何をしたかではなく、何のために」という「地図をつくることの意義=生きることの意味」というようなことは、むしろ原作よりも伝わってきました。また、山での測量という仕事の手順などは、緻密な文章でいくら読んでもよくわからない。それがビジュアルだと一目瞭然ですよね。やっぱり、映画はエ〜ガね!
さらに、富山駅に見立てた地元の古い駅など、明治という時代が違和感なく丁寧に表現されていました。当時の人々の気質も含めてです。こんな感じだったんだろうなぁって思いました。

もちろん、不満点もあります。
音楽過多だと感じました。音楽監督は池辺晋一郎でしたが、場面によっては…もっと静謐でもよかったと思ったのです。どうしてあんなに音楽が必要だったんでしょう。特に最初の…視察登山のあたりなどですけどね。
自然描写は確かに美しいのですが、山での寒さなど…空気感はそれほど伝わってこなかった。場面によっては、凍傷になりそうなくらいの冷たさを表現してもよかったのではないかと思いました。

そして、山頂にいたる表現です。ヘリコプター撮影を拒んだという気持ちもわかるのですが、正直…少しものたりなかったのです。第一、山頂全体が把握できない。カメラを置く場所もないから撮影はたいへんというのはわかるのですが、もっと盛り上げられなかったのかという気もしないではありません。たとえば、そこだけヘリコプター撮影があってもよかったんではないでしょうか。あるいは、前劔あたりから望遠で撮影するとか(してるのかな)…どうなんですかねぇ。ハンドカメラを持って登ってそれらしく見せるとか…そういうもっと映画的表現があってもよかったような気もしましたけどね。つまり、ウソをホントだと思わせる一種の詐術が必要だったのではないかということです。
それとも、大自然とはそういうものを受け入れないほど大きいのでしょうか。

もっと緩急があってもと思ったわけですが、逆に(原作にはない)滑落シーンでは妙に取って付けたような印象も受けました。 これも、大自然は小細工を受け付けないってことでしょうか。
記録(原作)とは少し変えた登頂アタック隊のメンバーのことも含めて、試行錯誤の末とは思うのですが…山頂にいたるシークェンスではアッサリしたものを感じてしまったのです。

自分の登山経験でいえば、苦しくて苦しくて「あと一歩(はぁ)、あと一歩(はぁ)、や…やったぁ〜山頂だぁ〜!」っていう内なる高鳴りがありました。そういうのはこの映画からあまり感じなかったですね。不思議と汗を感じさせない淡々とした映画でした。
内よりも外側からの視点。おそらく…そこがきっと、カメラマン木村大作の目なんでしょうね。

山頂といえば、発見されたアレとコレの表現にも疑問が残りました。それをどういうふうに見せてくれるのかと期待していましたが、1000年前として…1000年後は本当にあんなものですかねぇ。


とはいえ、この映画、わしはほとんど満足です。よかったですよ。感激です。
主役級の俳優はもちろん、チョイ役の人たちまで輝いてましたしね。エンド・クレジットでは「仲間たち」として皆の名前が並列に流れました。家族的っていうのか、こういう山仲間ならではの配慮もいいですね。

主人公の柴崎と妻のことは場面として多くはないのですが、「ただいま」といえば「おかえり」といってもらえるのはいいですね。最終的な…自分の居場所なのかな。男にとって…妻の笑顔がどれほど大事かってことですよね。
映画では省かれていたけど、原作では妻は毎日のように手紙を書いてるんですよね。

「何をしたかではなく、何のために」というのは深く強く感じ入ったところですが、人生のもとを取る…というのか、家族を持つということも深く考えさせられました。柴崎もきっと、そう思いながら山を歩いていたのでしょう。


ネットで他の人の感想も読んでみましたら、「自然は美しいがCGが今ひとつ」というのがありました。CG? どこのこと? 雪崩や吹雪は…もちろん、本物を待っての撮影ではなく人為的なものでしょう。 リアリティは必要だけど、リアルであってはケガ人も出る。でも、それだって本物のうちといえると思う。
ウソを加えないようにしても、そこにウソを見る。
昨今はCGで本物らしさを追求し、逆に本物に対してCGを感じるのだとしたら…滑稽な時代ですなぁ。

わしも登頂した山ですから、ほとんどの場面で…しみじみとそれがどこなのかがわかりました。DVDでもう一度、ゆっくり観賞してみたいものです。

実は確認したいこともあるのです。この映画は明治時代の登山道のない未踏の山の話なのに、もしかすると尾根筋に現代の登山道が映っていたかもしれない。それを指摘した人はまだいないんですけどね。
もしそうだったとしたら、そここそCGで消す必要があったでしょう(笑)。


博士の愛した数式を愛するもエ〜ガね

HAL爛漫の桜の季節となりましたね。消費税も8%になりました。あ、HALというのは…『2001年宇宙の旅』に出てきたコンピュータの名前です。
出だしから脱線でしたね。今、Rihwaの「春風」を聴きながら書いています。

http://www.youtube.com/watch?v=uG0U0iT9y1A

その昔、DVDで『博士の愛した数式』を観ました。桜のシーンが印象に残っています。
『博士の愛した数式』は『メメント』のアイデアをパクッてつくられた映画だといった人がいて、そんなこともあって…わしはこの映画を敬遠して観てなかったんです。

確かに、限られた時間しか記憶できないという点ではクリストファー・ノーラン監督の『メメント』と同じかもしれない。
復讐劇の『メメント』では、主人公はメモとして身体に入れ墨をしていました。対して、『博士の〜』では七夕の短冊のようなメモを上着にぶらさげている。もしかすると、原作者は『メメント』を参考にしたのかもしれませんね。でも、仮にそうだとしても…それだけのことです。パクるとかってレベルじゃない。

『博士の愛した数式』の主人公は…数字と愛を交わす。数学と恋愛をしているかのごとく、なのです。そこにはわしが知らなかった魅惑の数世界がありました。数字が導く先には数の美がある。秩序がある。摩訶不思議な広がりが伝わってきたんです。
算数嫌いのわしが…そう感じたんですよ。

監督は小泉堯史。『雨あがる』のときは「黒澤監督ならばどう撮ったか」という一念でつくった感じでしたが、今回のはしっかり小泉作品になっていると思いました。こうなると『阿弥陀堂だより』も観るしかありませんなぁ。
原作小説は小川洋子。美しくて静かな文学作品でした。見事ですね。余談ですが…わしは以前から、この人に魅力を感じていたのです。

博士と呼ばれる老数学者(寺尾聡)が主人公で、彼は記憶が80分しかもたない。原作では家政婦(深津絵里)が「私」として語ります。でも、映画では彼女の子どものルートが大きくなって数学教師(吉岡秀隆)になり…母親と博士の話を生徒たちに語るという回想の形をとっています。わかりやすくなっていますね。
とはいっても、原作と映画に大きな違いはありません。博士の義理のお姉さん(浅丘ルリ子)も登場しますが、映画のほうがより意味深なスタンスかもしれません。
それにしても、テレビドラマの『北の国から』に始まった吉岡秀隆の語りは心地いいですな。語りから美しく切ない妙なる調べにつながり…タイトルが入る。その瞬間、わしは心ごと持って行かれる感じでした。

余談ですが、映画には黒澤映画『赤ひげ』の長坊役や『どですかでん』の主役だった頭師佳孝もチラッと出ていて…うれしくなりました。 東宝のフランケンシュタインのも…実は彼だったんですよね。

数は人間がつくったものではなく、人類誕生より前から存在している。人間はそれを掘り起こして発見し、証明するだけなのだという。驚きです。だとすれば、それはもう…神の領域ですよね。まさに、ピタゴラスの「万物は数なり」です。
わしが最も興味を持ったのはここなのです。それこそ、自然界の数に関する不思議は数知れず…でしょう。

東野圭吾の「容疑者Xの献身」には「数学は宝探しに似ている」という表現がありましたっけ。
そういえば、円周率πは3.1415926535…と蟻の行列のようにつづいている。どこまでつづくかわからないと聞いたことがあります。確か、どこの位まで発見したなんてニュースもありました。やはり、人間がつくったものではないんですね。不思議です。

それをピアノ演奏にすると…なんと心地よいことか。ずっと聴いていたくなる。
https://www.youtube.com/watch?v=OMq9he-5HUU

また、0(ゼロ)とは非存在を存在する数で、最小の自然数1よりも1だけ小さい数だという。インドの数学者が発見したそうですが、0の定義と理屈がすばらしい。
数というのは…神秘的で、なんて崇高なロマンがいっぱいなんでしょう。

『博士の愛した数式』では友愛数とか完全数とか虚数とか、いろいろと出てきます。博士はほとんど、数の話(と野球の話)しかしませんからね。 
その中で、特に愛情を持って語られるのが素数です。1と自分と同じ数以外では割り切れないオンリーワンの数。それは2、3、5、7、11、13、17、19…と無限につづいてゆく。
素数のことはわしも知っていました。科学番組の『コスモス』で広く知られるようになったカール・セーガン博士の『コンタクト』というSF映画でも、宇宙人と交信するために素数が使われていましたよね。

神秘といってしまえばそれまでですが、地球誕生より…もっと前から存在していたとされる数の正体とはいったい何なんでしょう。重力とか惑星の周期とか、そういうあたりから数学が発見され証明されていったのかもしれない。月に置かれたモノリスのように、人に気づかれるのを待っていた。そんなイメージでしょうか? 気が遠くなりそうです。数字や数学記号は単なるそれだけの記号かと思っていたんですが、そう単純ではなさそうです。

厳密には…博士が何をどう感じていたのか、わからない。でも、感じることの大切さだけはわかるのです。レーチェル・カーソンじゃないけど、まさに『センス・オブ・ワンダー』の世界です。
文字には字義や言霊があるように、数字にも似たような…それ以上の意味があるんですね。浅はかでした。わしはまだまだ…知るだけで、感じる心が足らなかったのか。詳しく触れられてはいないけど、わしは…ここに心が動いたのです。

博士は常に、「80分の今」を生きているのです。でも、今は永遠かもしれない。
博士の愛した数式。オイラーの公式が持つ意味と…響きと輝き、そこには永遠の真実があるのか。それとも…。いや、無駄な説明はやめておきましょう。
どうぞ、映画をご覧になってください。
ジミでマジメでジジくさい映画かもしれませんけどね。
わしには新鮮でした。陶酔してしまいそうでした。映画と原作小説の『博士の愛した数式』に感動したのです。いや、恋したというべきかもしれませんね。


ひとつの疑問が浮かびました。
数字といえばコンピュータを思い出しますが、『博士の愛した数式』には…映画でも原作でもコンピュータのことはまったく出てこなかった。博士はほとんど隔離状態だからかな? 時代設定が古いから? でも、30年前としてもコンピュータはありましたよね。まだ、一般的ではなかったのかな。話がややこしくなるので省いたのかもしれませんね。

コンピュータといえばHALを思い出すわけですが、あと30年もすれば…人口知能は人間を超えるらしい。
また、人間の意識をコンピュータに移植して、肉体が滅んでも半永久的に意識を残すことも可能になるという。それって一種の不老不死ですよね。
そうなるともう、脅威のワンダー・オブ・ワンダーですなぁ。

それとも、エイプリル・フールでしょうか。

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ネコ爺ことネコタル爺の高峰 至です。

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